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「アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです」を読む

本日はアルフレッド・ミーリー著「アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです」を読むことといたします。

カントの第三アンチノミー

ニュートンの物理学が確立されたとき、この宇宙のすべての物質は、ニュートンの運動方程式に従う存在であり、それぞれの位置と速度が与えられれば、その後の運動は全て定まっていると考えられるようになりました。そうなりますと、人には自由意志など存在しない。物理法則にしたがって運動しているだけである、と考えざるを得なくなります。

このブログの以前のエントリー「カント哲学の科学的意義、その2」にも書きましたように、カントはニュートン物理学が成立して少し後の時代の人であり、「自由は存在するか」という問いかけを第三のアンチノミー(二律背反)として掲げております。自由が存在するなら、少なくとも、人体においてニュートン力学は成り立っておらず、宇宙の全ての場所でニュートン力学が成り立っているなら、人に自由などない、ということですね。

この問題は、現在でも難問です。この難問に真正面から取り組んだのが同書というわけですから、本ブログといたしましても、ここはお手並みを拝見しなくちゃいけません。

同書の構成

第1章:自由意志って何を意味するの?

この章では、用語「自由意志」の三種類の意味が与えられます。即ち、「レギュラーの自由意志」、「ミドルクラスの自由意志」、「プレミアムの自由意志」の三種類です。それぞれの意味は次の通りです。

レギュラーの自由意志:強制されていない状態で決定を下すこと

ミドルクラスの自由意志:レギュラーの自由意志に、選択可能性を付け加えたもの。つまり、別の決定も下すことができる状態で特定の決定を下すこと

プレミアムの自由意志:ミドルクラスの自由意志に超自然的要素を加えたもの。つまりは、魂なり心がその決定を下す、ということでしょう

第2章:レギュラーの自由意志

この章では、操作された主体には自由意志がないということを語っているのですが、これは、あたりまえのように思えます。

第3章:ミドルクラスの自由意志

選択可能性を自由意志の要件とするなら、この世界で起こる現象があらかじめ定まっているという決定論は受け入れられないとする考えは古くからあるのですが、過去の経緯がすべて同じであっても異なる決定が可能であるなら、それは運の問題であって、自由意志は不可能になる、とミーリーは主張します。量子力学的不確定性は、選択可能性を発揮しているように見えるのですが、これは自由意志とは別物なのですね。

第4章:リベットの脳科学実験

リベットは、自由意志が決定を下したと自らが考える0.3秒前に、脳は既に決定を下していることを脳科学実験で実証しました。そして、人は自由意志で決定を下したと考えているが、それ以前に無意識が決定を下している、との結論に至りました。

第5章:fMRI実験

リベットの実験と同様の実験をfMRIを用いて行い、選択したと意識する10秒も前から、脳は既に決定を下しているとの結果を得ています。

第6章:自由意志に関するガザニガの主張

上で行われた実験に対するガザニガの主張は、実際の決定は無意識のうちに行われ、自らの行動に対する説明は事後的な観察による、としております。これが正しければ、自由意志は無意識のうちに働き、これに説明を与えるのがその後であっても良いことになります。

ここで、いくつかの心理学的実験が紹介されます。

一つは、4つ並べられた全く同じストッキングから良いものを選び出すというテストで、最後に見たものが選ばれる、という結果が得られたこと。これを選んだ理由を被験者に説明させたところ、当然の話ですけど、誰一人として場所で選んだとは答えていません。つまり、自らの選択の理由を本人は自覚していないのですね。

もう一つの実験は、公衆電話のつり銭に置き忘れた10セントを見つけた人が親切になるという実験で、人が何かをするかしないかという決定を下すに際して、こんな要因が絡んでおります。

更にもう一つの実験は、部屋の外で助けを呼ぶ声がした場合、部屋の中に大勢いると助けに出ようとしないという実験です。まあ、これは、他の人が助けるだろうと考えるからなのでしょうが。

第7章:ミルグラムの実験と自由意志

この章で語られるのは、被験者に、さくらに電気ショックを与えさせる実験と、看守の役割をさせる実験で、被験者が一定の役割を与えられると、極めて非倫理的行為も高い比率でしてしまうという結果を得ております。

つい先日、オウム真理教の幹部らの死刑執行が相次いで行われたのですが、このような心理実験をみてしまいますと、はたしてオウムの実行犯らは、ふつうの人であっても、置かれた環境のみを原因として凶行に走ってしまったのではないだろうか、との疑問がわきます。

もちろん、犯罪を裁く大前提は、自由意志が存在することなのですが、その自由意志がどこまで真に自由であるかとなりますと、はなはだ漠としているのが現実である様子です。

第8章:自由意志についてのウェグナーの主張

ウェグナーは、自由意志は幻想であると主張します。その理由として、こっくりさんのような、自覚しないでモノを動かしてしまう行為の存在を上げております。

確かに、自覚しないで起こる運動の存在は、自由意志の反例ではあるのですが、人の運動には無意識のうちに生じる反射的運動もあり、この反例の存在が必ずしも自由意志を否定することにはならないように思われます。

同様の指摘は訳者であります蟹池陽一氏もおこない、215ページ以下の解説部分に次のように書かれています。

こうしてみると、ウェグナーの考え方もある程度もっともらしいと思われるかもしれない。しかしながら、最近の脳科学研究を鑑みると、やはりそうではなく、行為産出過程が一種類だけだと考えるのは誤っているようである。

行動を決定する神経制御系(controller)には三種類あるとする説が最近では有力であり、パブロフ的システム、習慣的(手続的)システム、および目標志向的システムがあるとされている。このなかで、パブロフ的システムは、たとえば、条件反射的行動のような一定の刺激に対する一定の行動を制御するものである。習慣的(手続的)システムは、例えば日常的にくりかえされる行動のような、一定の刺激に対する、学習を通して獲得された一定の行動を制御するものである。目標志向的システムは、熟慮に基づく行動のような、所与の刺激に対して、それに対する行動の帰結を計算・比較して選択される行動を制御するものである。パブロフ的システムと習慣的システムは無意識的なものであり、目標志向的システムは意識的なものである(この考えかたの一般読者向け説明としては、Redish, A. David, The Mind Within The Brain (Oxford University Press, 2013) を参照されたい)。この説に従うと、行動産出過程は一種類だけではなく、無意識的行動は、無意識的な行動決定システムにより、意識的行動は、意識的な行動決定システムにより制御されていることになり、ウェグナーのように考える必要はなくなるのである。

ずいぶんと厳密な書き方をされていますが、少々冗長に過ぎるようにも思われます。目の前に何かが近づいてきたら目を閉じる、そんな反射的行動がありますから、全ての行動が自由意志に基づくものではないくらい、最初から分かり切った話であるように、私には思われます。

それにしてもこのどこかで聞いたような「最近の脳科学研究」ですが、習慣的(手続的)システムと目標志向的システムの存在は、カントの悟性と理性にほぼ完全に対応しております。この程度のことは200年前からわかっていたことであるようにも思われます。

それを科学的に立証したという点に、最近の脳科学研究の意味があるであろうことは、否定いたしませんが。

第9章:科学的証拠とレギュラーの自由意志

強制されていなければ自由であるとする考え方は、第4章と第5章で紹介された無意識のうちに決定しているという事実、あるいは、第6章および第7章で紹介されている、自由意志で決定していると思われることにも、さまざまな外的要因が大きく影響しているという事実から、疑問が提示されます。

第10章:科学的証拠とプレミアムの自由意志

強制されてないという要件に、選択可能性と魂の存在を加えたのがプレミアムの自由意志なのですが、魂というよくわからないものをもちこむことが難点とされます。そこで、魂に代わるものとして、「意思決定」という結果の原因としての「行為者」を考える「行為者因果」という考え方も紹介されますが、その行為者とは何かがはっきりしないのが難点ということになります。

三つの世界論における自由意志

結局のところ、同書では自由意志とは何か、そしてそれは科学的知見と矛盾するのではないか、という問題に対して明瞭な回答は与えられていないように思われます。

恐らくは、自由の存在と自然科学は、普通に考えればこれを「アンチノミー」とするカントが正しいように、私には思われます。そしてこの二律背反を解消するのが、複数の世界の存在であるというのが、このブログのかねてからの主張なのですね。

複数の世界といっても、怪しげな話では全然ありません。言葉なり概念には、それが定義される論理世界というものがあります。異なる論理世界で存在の有無が異なっていても、矛盾は生じないのですね。

x2 + 1 = 0という方程式の解は、実数空間には存在しないのですが、複素数空間には存在いたします(x = ±i)。それと同じことが、自由意志についても言えるのではないか、ということですね。

人の認識は、それぞれの人の主観によっておこなわれます。自然科学の教えるところでは、主観とは脳がおこなう情報処理によって生じているのですが、人は、脳云々の自然科学的知識を獲得する以前から、主観的世界の中に生きております。

そして人は、自らの外部にも世界があると考え、その外的世界のイメージなりその世界に関する知識体系を自らの主観内(脳内)に構築します。注意すべきは、人はその外的世界を自らの外部に存在する世界として考えているのですが、外的世界に関わる情報の全ては、人の主観内部に保持されているという点です。

さらに、人は他者とその集団である社会の存在を認識しており、これと様々なコミュニケーションをとることによって、社会の持つ知識を自らの主観内に取り込んでおります。そのあるものは、外的世界に関わる知識の一部となります。

このブログでこれまでにご紹介しました三つの世界論は、脳による情報処理の結果生じる主観世界である世界C(Cognitive World)と、外的世界に存在する様々な物質がその法則にしたがう運動により生み出す世界R(Real World)と、そして、コミュニケーションチャンネルで結ばれた多数の人で構成された社会の知的機能により生み出される文化・常識である世界S(Social World)という、三つの世界を考えるものです。

人は世界Cしか知ることができませんが、世界Rと世界Sの存在を確信しており、自らの世界Cの内部に、世界Rと世界Sの不完全なコピー(世界R'と世界S')を保持しており、これらを人は「客観」と考えています。

そして、自然科学は世界Rに関わる世界Sの情報であり、主観の内部に保持される概念化された外的世界R'に関わる知識の一部として保持されます。

また、自然科学の知識体系は、主観を排除することで成り立っており、その中には自由意志も含まれておりません。

一方、主観世界である世界Cにおいては、自らが自由に自らの行動を決定していると意識しており、自由意志は確固として存在いたします。

デカルトのコギト(われありという命題)は、これが成立していない場合、全ての議論が意味を失ってしまうため、アプリオリに成立している命題、すなわち原理(プリンシプル)として与える必要が今日でもあります。

この「われ」とは、行動する主体であると同時に認識する主体であり、世界がいかにあるかの判断と何をなすかの決断をその機能に含んでおります。この判断・決断機能は自由意志に他ならず、主観世界に自由意志は存在すると考えられます。

つまり、自分自身という主体が存在する以上、自由意志もこれに伴って存在するしかありません。

人の集団である社会(世界S)は、コミュニケーションによる個々人の主観(世界C)の共有がなされて形成されます、このため社会においても自由意志の存在が認められ、社会が個人の責任を問うことも正当化されます。

一方、外的世界に対する今日一般的な理解は、自然科学をその基礎とする理解であり、魂や自由意志は見かけ上の存在であって、実体としては存在しないと信じられています。

つまり、自由意志が存在するのは、世界C及び世界Sであって、世界Rには自由意志が存在しない、とする見方が今日一般的であると思われます。そして、世界を理性的に理解するとき、人は世界Cに生きているにもかかわらず、世界Rを唯一の実在とする見方が広くなされているが故に、自由意志の存在の有無がアンチノミーになるのでしょう。

以前のブログ「Subject(主体)について」でも書きましたように、世界Rを基本的存在とみなす考え方はギリシャ時代から広く行われてきたのですが、カントによってこの考え方が逆転され、人の認識するものを基本的存在とする考え方に代わっております。

なにぶん、カントによれば、我々はもの自体を知り得ないのですから。そしてこのカントの主張は、今日でも否定すべくもありません。

カントのそうした発想の転換は、しかし、あまり多くの人には受け入れられておらず、今日に至っても、多くの人々はギリシャ時代からの考え方に従っております。

このあたりで、世界に対する基本認識をカント式のものに切り替えていくことが必要なのではないかと、私は考えております。そしてそれは、物理学からの要請ともなるのではないかと考えているのですね。この点につきましては、いずれまた詳しく論じることにしたいと思います。(こちらで議論しております。)

理性が作る自由意志

上記第8章への批判として、神経制御系(controller)には、パブロフ的システム、習慣的(手続的)システム、および目標志向的システムの三種類あるとする説を訳者が紹介しておられ、後二者はカントの悟性と理性に対応することをご説明しました。

脳を情報処理システムと考えるとき、たしかに個々のニューロンはインパルスに反応しているだけなのですが、ニューラルネットワークは信号を抽象化した、ある種の意味を与えた形で処理を進めます。

たとえば、視覚情報は、網膜ではビットマップデータとして生成されるのですが、その後の階層的なニューラルネットワークにより、エッジの検出や図形的特徴の抽出がおこなわれます。さらに、脳の様々な個所で、その画像から人物を抽出したり、地図情報との対照がおこなわれたりいたします。

これらは、一部は全く意識の介在しない反射的作用として、他の一部はカントが悟性と名付けた半無意識的作用として行われます。そして、抽象化され、概念化された情報に対して理性が論理的判断を下すという経緯をたどります。

理性はまた、自らを内省することが可能であり、自らの判断機能を自由意志として理解しています。

理性は、物理的には、単純な動作をする多数のニューロンからなるニューラルネットワーク上で動作しているのですが、理性自体が自らを省みるとき、それは概念化された対象として把握されており、選択可能性をそこに見出しております。

人が世界を認知する際、物理的に生じている現象は、ニューラルネットワーク上のインパルスのやり取りなのですが、人の意識の中では、さまざまな概念、即ち互いに関連付けられた(多くの場合は言語化された)情報の形で処理されます。

ニューロンの動作は物理現象であり、そこに自由など存在しないのですが、ニューラルネットワークの判断そのものは選択であり、ニューラルネットワーク上の理性が判断を行う以上、理性自身がそこに自由があると認識していることは、さほど不思議な話でもありません。

そしてさらに重要な点は、最初に存在したものは、自らの主観、つまりは「自我」であり、「物理現象」などという概念自体、我々の主観がその中に作りしたものである、という点です。

もちろん、物理現象という概念は、学習により、この社会を構成する他者とのコミュニケーションをつづける過程で獲得されたものであり、単なる思い付き程度の主観よりはよほど確かなものです。

でもそれを獲得しているのはあくまでおのれの主観なのであって、その中では、物理法則の正しさと同じ程度の確信をもって、自由意志の存在を意識している、というわけです。

これが、前節で述べました、異なる世界の話ということになります。

時間という問題

以下は、たしかにそうであるという自信はあまりないのですが、上とは異なる、もう一つの面白い着想を得ましたので書いておくこととします。

相対論の議論で、知ることができるのは過去、操作することができるのは未来、知ることも操作することもできないのが現在、という話がありました。

これを脳神経系にあてはめると、感覚器官は過去から情報を受け取り、脳(ニューラルネットワーク)は現在の情報を処理し、運動器官は未来に働きかける、という対応となっています。

ハイゼンベルクは、自然科学が対象とするのは知りえる事柄だけであるとしております。そうすると、自然科学が扱えるのは過去のみということになります。

そして、過去の事柄は既に決定している。つまり操作不能ですから、自然科学が扱う領域に自由意志は存在しえない、ということにもなります。

もちろん、自然科学は未来も過去の延長として扱うことは可能です。でもそれは、過去と同じものが未来の方向に延びていると考えているのですね。

一方、世界は過去だけではなく、現在もあれば未来もある。自由意志は現在にある、とする考え方は、なかなか魅力的であるようにも思えます。

あまり宗教染みた話は好きではないのですが、霊魂は現在を漂っている、とするのであれば、自然科学が決して霊魂を検出できない理由も説明がつくことになります。

「では未来にあるものは何?」という問いかけは当然あるでしょう。

それは「夢」で決まり、じゃないかと思いますが。

まあ、現在と未来に関しましては、「何とも言えない」が正解だと思いますけど、こういう考え方は、誰かしていたでしょうか?

このあたりをもう少し考えて、まとめてみたいと思うのですが、、、(このアイデア、ひょっとすると没にするかもしれません。一応、現時点では書いておきますが、、、)