ゆえっちの領域に迫るネギま!の哲学、先週に続いて第3弾、です。
先週は、モノには2種類ある、というお話をしました。有体物と無体物。ネギま!の例でいえば、インクが付着した紙の綴じられたモノ、つまり物理的なコミック本としてのネギま!11巻と、そこに描かれた大勢のキャラクタと彼らが織りなすネギま!の物語としてのネギま!11巻です。
法律的には、この二種類のモノは、まったく異なるものとして扱われております。
本自体を有体物といい、書店で販売して誰でも買うことができます。そして、買った本なら、もちろん読むのは自由だし、枕にするも良し、燃やして暖を取るも良し、尻を拭いても良い。
でも、そこに描かれたキャラクタやせりふ、要は物語の部分、は無体物と呼ばれ、有体物とは別の権利が働いております。つまり、著作権ですね。だから、読者が本を買っても、内容に関する権利は、依然赤松氏なり出版社なりが持ちつづけ、勝手にコピーして売ったりはできません。
と、いうようなことを前回お話したのですが、デカルトの哲学原理を読み直しておりましたら、デカルトも似たことを書いている、ということに気づき、今回ご紹介しようというわけです。
デカルトといいますと、エゴ・コギト・エルゴ・スム(ego cogito, ergo sum)という呪文で知られた方です。日本語に訳すと、我思う、ゆえに我あり、です。(ゆえっちの名前の由来かな?)
この言葉、存在するのは自分の意識だけである、と主張する唯心論との誤解を受けたこともあるのですが、実際のところこの本でデカルトが試みたのは神の存在証明なのですね。
で、神の存在証明のほうは、あまり成功したようにはみえない、というか説得力がないのですが、存在に関する議論の中には、なるほど、と思わせるものも少なくありません。以下、岩波文庫版哲学原理(デカルト著、桂寿一訳)から一部を紹介し、ご説明いたしましょう。
そうすると[知性だけを使用すること]によって、われわれは物質即ち一般的意味の物体の本性が、それが堅さや重さや色あるもの、或いはその他何らかの仕方で、感覚を刺激するものであるという点にではなく、ただ単に、長さと幅と深さに広がっているものである点に、存することを知るであろう。何となれば、堅さについて言えば、これについて感覚がわれわれに知らせるのは、われわれの手があたるときその手の運動に、堅い物体の部分が抵抗するということ以外に、何もないからである。
現代的な言い回しをすれば、物理的に存在するものは、エネルギーの空間分布であり、その他の属性は、感覚を通してわれわれの意識の中に形成された概念として存在する、ということ。
でも、デカルトの存在・非存在の議論において、意識中の存在は物理的な存在と同等、あるいはそれ以上に重視されています。そもそも、我思う、ゆえに我あり、ですからね。
デカルトの証明した神の存在も、属性としてのみ存在する、というわけで、意識中の存在です。
というわけで、少しまとめを試みましょう。
まず、エゴ・コギト・エルゴ・スム、これは正しいとしか言いようがありません。否定は矛盾です。これを認めると、さしあたり、われわれの意識は存在する、ということになります。
で、次には、感覚(知覚)の存在を認め、知覚の対象が意識とは別に存在することを認めます。その理由は、感覚の対象である世界に、意識とは区別された保存性、法則性があるからでして、手帳に書かれた言葉の方が意識(記憶)より頼りになる、なんて事例からも、納得できるでしょう。
このあたりで、他者についても議論する必要があるはずですが、ここでは細かい議論をしません。ただ、意識された事柄は、言葉やその他の手段を用いて他者と共有できる、という点は大事です。そもそも、こんな議論自体、他者から受け継いだ概念の上になされているのですからね。
で、意識されたもの(概念)と意識されるもの(モノ自体)の線引きですけど、有体物と無体物の線引きとはだいぶ異なりまして、本という概念も、実は意識されたものなのですね。
そもそも物理法則自体、概念の領域にありまして、そこで使われる言葉も概念世界に属するもの。モノ自体の世界に残されるのは、一定の法則性を持って変化する、ヒトの知覚の彼岸なる何か。あえて呼ぶなら、混沌、なのですが、混沌という言葉自体、ヒトの意識世界に属するのですね。
ここまでくると、我々にとって意味あるものは、意識された世界の出来事である、といえるはず。
たとえすべてが化学反応として解明し尽くされたとしても、生命は神秘的存在として意識され、人の心の大切さが意識されるなら、そういった概念は現に存在するし、尊重されなければならず、神を信じる人が多いなら、神もまた存在するのですね。我信ず、故に神あり、です。
いかに科学が進歩した世界といえど、物事を決める出発点は人の心。これが結論じゃないかな?