お正月のこのブログで「現代人のための哲学」をご紹介いたしました。この本、幅広い哲学思想を、その核心を突いて紹介している好著なのですが、著者の主張が今ひとつ曖昧なことと、物理学との接点が欠けているところに、少々のもどかしさを感じた次第です。
もちろんこれは、著者の渡邊二郎氏が本を書く背景(おそらくは教育的立場)と、私がこの手の本を読む理由(世界の真実を求めて)の差から生じたもどかしさであって、著者に文句を言っても始まらないことではあります。
書物に答えが書いてないなら、自分の頭で考えるしかない、というわけで、これまでに読みました数々の書物の内容を取捨選択、ロジックがきっちり通るように、この世の真実を探ってみようではないか、というのが本日のこのブログのテーマです。
で、表題に掲げました「フィジックス(物理学)とメタフィジックス」なのですが、物理学フィジックスは、宇宙の真実を探る学問である、とされておりまして、世の物理学者は、あまりその前提に疑問を抱いておりません。
しかし、物理学がなぜ可能か、学問のよって立つその基盤は何なのか、人の知ることができる限界はどこにあるか、といった点に関して、物理学の側からの深い考察が行われているわけでもなく、このことが、最近の様々な問題、量子力学の観測問題や、脳科学の心身問題といった、困難な問題に結びついているように思われます。
その結果行き着いた境地が、ヴィトゲンシュタインの独我論や、利根川進の唯心論であり、多くの物理学者が心に描く「神の視座」もまた、これと軌を一にしています。唯物論、客観主義の行き着く先が独我論であり、唯心論であるということは、なんとも皮肉な現象である、といわざるを得ません。
このようなトンチンカンな現象は、物理学フィジックスが形而上学メタフィジックスを軽視したが故に生じた現象であり、哲学者の側からは、とうの昔に解は得られている、と私は思います。要は、物理学と形而上学という、二つの文化が別個にあって、これらの間の交流がない、相互理解がなされないことが、今日のおかしな世界理解の根底にあるのではないか、と思われるのですね。
と、いうわけで、今回はその橋渡し、この二つの文化の、お互いの誤解を解くことを試みてみたいと思います。
まず第一に、物理学者は人の主観とは独立に存在する事物の記述を目指します。これは一面において正しく、一面において間違っている、と私は思います。
まず、間違いですが、記述という行為は精神的主体である人間が行う行為であり、当事者の主観に基づく行為でしかありえません。また、その主体にとっての事物は、知覚を通してその精神の内部に構成された、対象物の表象であり、様々な意味を与えられた概念であって、事物そのものではありません。
ただ、事物そのものの概念、ないしそこに見出される法則という概念は、単に一個人の主観の内部に止まるものではなく、他の人にも理解され、同様の概念を引き起こします。すなわち「主観とは独立に存在する」という表現も、あながち間違いである、とは言い切れません。
しかしそれでは、その主観と独立に存在する概念なり法則なりがどこに存在するのか、と問うとき、物理学者は、外界の事物そのものである、と考えるのですが、これが大いなる間違いなのですね。
概念や法則は、精神的機能によって生み出され、保持される存在であって、外界の事物そのものは、区切りもなければ名前もない、ただそこにある存在です。幸いなことに、その存在は、一定の保存性、法則性の元に運動しており、であるが故に、われわれの精神はそこに様々な概念、法則を見出すことができます。
これらの概念が一個人の主観を超えた存在となりえるのは、他者もまた、同一の外界の中に生きているからに他ならず、主観とは独立に存在する事物そのものの存在は否定できません。ただそれが、名もなく区切りもない存在であって、概念、法則を扱う学問の世界とは異なるのだ、ということを忘れてはいけません。
では、学問の世界とは何か、ということになるのですが、それは共有された主観の世界、現象学者のいう間主観性、相互主観性の上に構成された世界であり、主観が一個人のニューラルネットワークで構成された精神的機能の内部に保持されているのに対し、学問の世界は社会という精神的機能を持つ装置の内部に保持された知識体系である、とみなすことができるでしょう。
社会という精神的装置は、人という個々に精神的機能を有するパーツをコミュニケーションチャネルで接続した、大規模かつ複雑な装置であり、出版、放送などのコミュニケーション機能や、学校や図書館などの教育機能、また研究機関や学会などの学術機能などなどを含んでおります。
このような機能により、社会は統一された知識体系を形成し、社会に属する個々人の主観の中に、その知識を複製する。その一つが物理学であり、物理学は人類の知識の総体の一部である、ということになります。
物理学が、人の主観とは独立に存在する事物そのものを扱う学問ではなく、事物に対して人が知りえる知識の総体である、ということになりますと、一つの重要なテーゼを受け入れざるを得なくなります。それは、「知りえないことは語りえない」というテーゼでして、このテーゼを受け入れることで、量子力学における観測問題も、脳科学における心身問題も解決されるのではないか、と私は考えております。
観測問題の例でいいますと、光子がどのような経路を通ったか、などということは観測されない限り、議論することはできませんし、シュレディンガーのネコの例では、箱の内部を観察しない限り、ネコの生死を議論することはできません。
これらの現象は、人の主観を離れた事態としては確定していたとしても、伏せられたカードと同様、それが何であるかを議論することは意味をなさず、確率で議論するしかない、ということになります。
心身問題の例でいいますと、人の精神的機能が脳を構成するニューラルネットワークの内部での電気的パルスの流れで説明できたといたしましても、現実の世界で他人の脳の内部のインパルスの状態を観測することなどできず、日常的な局面においては、脳科学の教えるところはあまり役に立つとはいえません。
われわれが世界を見るとき、常に一つの見方のみしてはならない、という縛りはありません。マンガを読むとき、仮にそれが、紙の上のインクのパターンに過ぎないことを知っていたからといって、豊かな物語を読み取れないわけではない。むしろ、それがインクのシミだ、などということを意識しながらマンガを読む人のほうが少数派、だと思うのですね。
同様の思想を発展させれば、世界が仮に、未来に至るまで全て確定した存在であるとしても、それがどのようなものかを知りえない以上、未来は確率的にしか語りえない、可能性が開かれた世界である、といえます。
学問は人類の知識の総体である、ということを受け入れることは、人の主観と独立な世界を研究していると考える物理学者には、少々面白くないことではあるのかもしれません。しかし、これを受け入れることで、世界はずいぶんと見通しの良いものになるし、この世に生きる意味といった夢のある世界が開かれてくるのではないか、などと考えておる次第です。