コンテンツへスキップ

コギトの誤解:「哲学者クロサキの哲学超入門」を読む

本日は、黒崎政男著「哲学者クロサキの哲学超入門」を読むことといたしましょう。

黒崎氏は、東大哲学科博士課程を満期終了されて、現在は東京女子大の教授をされている、哲学一筋にやってこられた方で、今日では人はデジタルの目によって監視されているという、フーコーばりの視点をコンピュータネットワークが拡大した現代社会全体に拡大した主張をされている方です。

同書は、そんな黒崎氏の思想のベースが垣間見えそうな書物であると期待される一冊なのですが、さて、どうでしょうか。

デカルトのコギト

同書の構成は、最初にデカルトのコギトを簡単に紹介した後、文化社会の現象について黒崎氏の思うところを述べ、最後にカントで締めくくるという形をとっております。

この間にあります文化社会に関する議論につきましては、別の機会といたしまして、本稿では最初と最後の、哲学らしい部分につきましてご紹介しておきます。

まず、最初のデカルトですが、これは少々まずいように思われます。

第一に、デカルトのコギトを“cogito, ergo sum”としております。デカルトのこの言葉に関するこの誤解は広く蔓延しているのですが、以前「コギトとデカルトのギャグ」と題してこのブログでご紹介したように、実はデカルトの言葉は、主語を付けた“ego cogito, ergo sum”とするのが正しい。少なくともデカルトは、この言葉を主語付きで彼の書物に書き記しております。

第二に、この言葉は、一般の読者向けを想定して書かれた軽い書物に記された言葉であって、哲学を専門とする人に向けて書かれた「省察」では“ego sum, ego existo”(我あり、我存在す)と書かれております。つまりは、この言葉は、何かを証明する言葉としてではなく、天下り的な前提として書かれているのですね。天下り的な命題とは、原理とか公準などと呼ばれるもので、他から証明される命題ではなく、考える上で最初から与えられる前提となる命題です。

なぜ、「我あり」を前提として与えなければならないかといえば、我の存在を否定してしまったら、おのれのあらゆる行為が意味を失ってしまうからです。

今日の論理学では、命題が真である条件として、その命題が正しいことのほかに、その命題が意味のある命題であることが要請されます。そして後者の一つの要請は、主語として記述されたものが存在することなのですね。

実は、こんなことは、普通の人も意識しないうちに判断しております。

以前、「元カレと喧嘩してしまった」とネットに書き込んだために大問題となった恋愛禁止のグループに所属するタレントがおられました。このとき問題となったのは、喧嘩したことではなく、元カレが存在するということ。「元カレと喧嘩した」という言葉自体には「元カレが存在する」と明示されてはいないのですが、「元カレと喧嘩した」ことが事実であるならば「元カレは存在」しなくてはいけない。

これと同じように、「我思う」が事実なら我は存在しなければならず、「我思う」が成り立っている以上は「我あり」も真でなくてはならないのですね。

では、「我思うゆえに我あり」という論理はどのような構造になっているかと言いますと、「我思う」の中にすでに「我あり」が含まれておりますので、「我あり、ゆえに我あり」という論理構造となっております。このような論理を「恒真論理」ないし「トートロジー」と呼び、この論理は常に成立する、だけどこの論理自体には何の意味もない、という論理形式となっております。

つまり、「我思うゆえに我あり」という論理それ自体は何の意味もない、ナンセンスな言葉であるわけです。

でも、我思うが成り立たないのであれば、なにも議論できないわけで、我ありは前提として与える必要があります。これを、哲学者向けに学術的にも妥当な書きかたをするならば「我あり、我存在す」とするしかなく、それを正にデカルトは哲学の専門家に向けて書かれた書物である「省察」の中に記した、というわけです。

ラテン語は、一人称の場合は主語を省略するのが普通です。でも省略しない場合もあり、それは、主語を強調する場合なのですね。つまり、“ego cogito, ergo sum”を正しく日本語に訳すなら「他ならぬ私が考えているならば私は存在する」と訳したほうが良いでしょう。こうすれば、この言葉の本来の意味がより明確になるはずです(8/30追記:「他ならぬ私が考えているならば私は存在しなくちゃいけない」のほうがわかり易いかもしれませんね)。

(9/16追記:「われ思うゆえにわれあり」が広く我が国で受け入れられている一つの理由に、75調であることがあげられます。そうなりますと、この言葉の正しい意味も、75調で与えたほうが良いかもしれません。そこで考えましたのが「他ならぬ我が思いているなれば、我は存在しなくちゃいけない」、さて、どうでしょう。みそひともじにまとまりましたが、最後がちょっと現代的に過ぎます。「我は存在せずにおられず」くらいかな?

そういえば、元の言葉も5文字付け加えれば俳句になりますね。「われ思うゆえにわれありいわしぐも」とかね。いわしぐもは、加藤 楸邨(かとう しゅうそん)の有名な句にあります。これをパクって短歌にすることもできますね。「われ思うゆえにわれあり鰯雲、人に告ぐべきことならずかな」な~んてね。ここまでまいりますと、お遊びが過ぎます。失礼いたしました。)

いずれにいたしましても、デカルトの言葉を正しく覚えず、主語のegoを落としてしまいますと、デカルトの真意がわかりにくくなってしまいます。このような大事な言葉は、正しく覚えるようにしなくてはいけませんね。

カントの主張

次は最後のカントですが、これは少々難物です。まず、黒崎氏のようにカントの哲学を研究する立場からは、カントが何を考えて何を書いたかという点を正しく掘り下げなくてはならないのですが、カント哲学を現代に利用しようという立場からは、カントが見出した新しい着想部分をピックアップして、その応用方法を議論すればよいと思うのですね。

そもそもカントは、日本でいえば江戸時代に生きた人であり、相対論にはじまる時空構造の理解も、量子力学的世界観も、あるいは無限に対する理解もまだ確立されてはいない時代に生きており、これらが関与する部分で不正確な論理展開となっておりますことはやむを得ないといえるでしょう。

物理学におけるニュートンにしたところでそのような事情はあるわけで、「完全なる神が作りたもうた宇宙は如何にあらねばならないか」といった考察はすべて無視して彼の見出した物理法則を利用することに、何の問題もないばかりか、まさにそうすることがニュートンの知見を現代に生かすことになるのですね。

カントの優れた着眼の一つは、我々が知りえる世界は、我々の精神内部に構成された世界であって、我々の外部にあるモノの世界そのものではない、という事実です。

これはあたりまえの話であって、我々は世界を感覚器官を通してみているのですが、我々がみているものは、感覚器官のこちら側の姿であって、感覚器官の向こう側ではありません。

ヒトの網膜には視覚の欠けている領域(盲点)があるのですが、片目で見たときも全ての視野がちゃんと見えているようにヒトは感じている。これは、我々の意識に視覚情報が伝達される前に、盲点部分の映像を補う処理が巧妙になされているからにほかなりません。つまり、我々が正に見ていると感じている世界も、視覚に関わる脳の情報処理を受けた結果であり、感覚器官の向こうにあるモノ自体の世界がそのまま見えているわけではないのですね。

もう一つは、我々が世界をみるとき、(これはリンゴだといった)さまざまな概念を割り当ててみているのですが、その概念は我々の精神内部の存在であって、外部にそのような概念があるわけではないという点です。

理性と悟性

同書の一つの問題は、「知性」と「悟性」をほぼ同様のものとして扱っているのですが、このあたりはカントの哲学のもう一つの重要な部分ですので、きちんと分けておく必要があるというのが(正しいかどうかは別として)私の理解です。

(10/9追記:純粋理性批判の日本語訳は、岩波文庫版が古くから出版されており、私はこれに準拠して議論しているのですが、比較的最近新訳の形で出版されました光文社古典新訳文庫版では、岩波文庫版で「悟性」の訳をあてていた部分を「知性」としております。

光文社版に関しましては、私はまだ熟読しておらず、断定的な議論はできないのですが、人間の知的働きを、意識して行われる「理性」と、無意識の元に行なわれる「悟性」に分けて考えるという点は、カントの主張の重要な部分であり、無意識的な知性の働きに「悟性」という訳をあてる岩波版のほうが誤解される危険性が少ないように私には思われます。

「悟性」は仏教用語であり、仏教とは無縁のカントの哲学にこの言葉を用いることは好ましくない、との主張にも一理あります。しかしながら、私の感覚では、無意識的な知性の働きを日本語で表現する際に「悟る」と表現することは、仏教思想の枠を超えた一般的な言語表現でもあり、カント哲学にこの用語を使うことも不自然であるようには思われません。)

つまり、「知性」には「理性」と「悟性」の少なくとも二つ(*)が含まれている、ということですね。「理性」とは、言語的論理的な精神機能であり、多くの場合は自分自身の意識の元で機能します。一方の悟性は、言語以前、論理以前の精神機能で、一般には無意識のうちに機能いたします。そして、悟性の重要な機能が、みたものをカテゴライズする機能であり、言語化する機能である、というわけです。(*:これ以外にカントは「英知」などということも語っておりますが、こちらはこの際、考えないことといたします。)

そもそも、理性が論理的働きであるならば、論理以前の感覚をどのように処理するかという問題が生じます。今見ているものがリンゴであるなどということは、論理以前に直感的に把握しているのですね。

もちろん、リンゴであるということを論理的に語ることもできまして、それが赤いとか、球状をしているとか、そういった要件を積み重ねることでこれはリンゴであるということを論理的に語ることもできるのですが、その場合の赤いとか球状であるといった部分は論理以前に把握していなくちゃいけない。少なくとも、何らかの出発点が論理に先立って与えられなくては、論理の展開はできないのですね。

観念論とカント哲学の違い

さて、カントは観念論と一緒にされることを嫌ったことが同書にも書かれております。実際、以前のこのブログでも読みました彼の書「プロレゴーメナ」では、自らの思想は観念論とは全く異なるのだということを強調しています。

バークリーの観念論は、「存在とは知覚されることである」というものであり、知覚されたもののみが存在するとしております。これは、人の主観とは関係なく存在する外的世界の存在を否定する考え方であり、まさに観念論そのものです。一方、カントは、我々はモノ自体を知りえない、としているのですが、モノ自体の存在は否定しておりません。むしろ、我々が知りえないという形でモノ自体が存在する可能性を言外に語っているのですね(モノ自体が存在するのかしないのかを含めて、我々は知りえないのですが。)

この部分を私なりに理解いたしますと、我々はモノ自体を知りえないのだが、モノ自体のありようを「推論」することはできる、ということでしょう。つまり、目の前に木がみえるなら、そこに木が存在すると推論することは可能です。もちろんそれは推論であって、外界の木そのものを認識したわけではなく、推論によって得られた外的世界(モノ自体の世界)とは、外的世界の不完全な複製物にすぎず、外的世界から得られる限られた知覚情報に基づいた推論により、我々の精神内部に構成された木にすぎません。でも、多くの場合、この推論に基づいて行動しても、すなわちこの不完全な複製物を外的世界そのものとみなして行動しても、大きな間違いは生じないのですね。

では外界にありますモノ自体をなんと称すべきでしょうか。それは、木という認識を人に与えるものであっても、木という概念は外的世界には存在しませんので、厳密には木ではありません。あえて言うならば、人々が木という認識を抱く原因が人間精神の外部に実在するということですね。でも、木という認識を人に抱かせる原因を我々は「木」と呼んでおり、眼前に木という認識を抱かせる原因が存在すると推論されるとき、我々は、「木が実在する」と称しているということもできます。もちろんこの「実在する」というのは我々の推論の結果であって、それが事実であるのか否かは最後まで断言はできない。でも、その位置に木が実在すると仮定すると期待される知覚を我々は何度も経験しており、これによって我々はこの推論に確信を持っているわけです。

このような推論は「帰納法」と呼ばれるもので、帰納法により得た認識は「仮説」であって、これが正しいという保証はありません。しかしながら、その仮説を何度も検証し、その都度これをパスすることによって仮説は強化される、これがポパーの主張です。眼前に木がみえることで、その原因としての木の実在を認識するのですが、何度見ても木がみえ、手で触ればそこに木のある触覚を感じる。こうして我々は、そこに木が実在するという認識(仮説)を、より強化することができるわけです。

(9/12追記:上に書きました「帰納法」は、「アブダクション」とするのが良さそうです。広い意味では、アブダクションは帰納法の一つなのですが、今日の論理学の世界では、帰納法とアブダクションを分けて扱うことが一般的であるようです。)

カントの客観概念

もう一つ、「客観」ということに対して、カントはプロレゴーメナの中で興味深い記述をしております。

客観的妥当性と〔すべての人に対する〕必然的な普遍妥当性とは相関概念である。そして、われわれは客観自体を知らないにしても、ある判断を共通妥当的、したがって必然的と見なすとき、まさしくそれによって客観的妥当性を意味しているのである。

これを私の理解するところに従って言い換えますと、多くの人が同じ推論をしているならば、それは客観的妥当性を意味する、としております。この部分は、フッサールの「共有された主観」すなわち「相互主観」としての「客観」の再定義とほとんど変わるところがありません。

カントの時代には、まだ、客観を相互主観性上に定義するところまでは至っておりません。しかしながら、カントはそれをおぼろげながらも感じていたであろうことが、このプロレゴーメナの記述からは窺い知ることができます。

学問、特に科学は、外的世界(カントはこれを「客観」とここでは書いています)に対する理解です。カントの「人はモノ自体を知りえない」との主張に対して、それでは科学は成り立たないではないかとの批判が生じるのは自然な成り行きともいえます。これに対してカントは、人々が普遍的にもつ認識(普遍妥当性)の上に科学が対象とすべき「客観的妥当性」を置く、という解を与えております。

ここでいう「客観的妥当性」とは、外的世界(客観)に相当するものなのですが、これが人びとが共通して持つ認識(普遍妥当性)と同じと見做せる理由として、人々は同じ外的世界に生きているという事実があるのでしょう。もちろん、人がモノ自体の世界を知りえない以上、この「事実」にしたところで推論の範囲を出ないのですが、人が外的世界の認識(という仮説)に対する確信を深める際には、自らの知覚だけでなく他者の認識にも依っていることから、客観的妥当性と普遍妥当性は同等とみなせるとのカントの主張も、一定の合理性は認められてしかるべきでしょう。

三つの世界という考え方

モノ自体と、主観と、相互主観という、この三つの世界は、それぞれが固有の情報の蓄積と変形(処理)をおこなっております。モノ自体の世界、ヒトの脳、多数のヒトによって構成された社会システムを、それぞれ異なる情報処理システムととらえるとき、世界はそれぞれの情報処理システムの内部に構成された互いに関連をもつデータの構造体であり、それぞれが、モノ自体という意味の客観、主観、そして相互主観上に定義されるフッサール的意味での客観に対応していると考えることができます。

このあたりにつきましては、これまでも何度か言及しておりますので繰返しはしません。同書は、内容的には疑問符の付く箇所が多々あるのですが、このような世界に思いを巡らす、何らかのきっかけとしては、有意義な書物であったということもできそうです。


8/30追記:山田弘明氏の「カントのコギト解釈」によれば、カントもコギト命題をトートロジーとみていたとのこと。さすがはカントであります。

2019.3.5追記:上のリンクは切れてしまいましたが、山田弘明氏は「カントのコギト解釈/Interpretation kantienne du Cogito cartesien」名古屋大学文学部研究論集(哲学49), 5-24 (2003)を発表されております。おそらくは、内容も同じだと思います。また、現在オンラインで読める他の資料15ページの注1にも、同様の趣旨が述べられています。


こちらにまとめを掲載しました。


こちらに訂正があります。

2 thoughts on “コギトの誤解:「哲学者クロサキの哲学超入門」を読む

  1. yoder_tko

    こんにちは!

    「コギト」に関して興味深く読ませて頂きました。

    後半(カント)については難しくてコメントできませんが、前半のデカルトについては面白く読ませて頂きました。そこで、2,3コメントさせて頂きたいと思います。

    その昔旧制高校には“デカンショ節”という唄があり、これはデカルト、カント、ショーペンハウエルの3人を指したとのこと。どこかに繋がりがあると思われます。

    ところで私はデカルトや哲学の専門家ではなく、科学史に興味を持っていて、最近ガリレオについて多少調べたことがあります。この関係でガリレオに関する本を読んだ中で、デカルトとの関係のある部分が存在しておりました。

    また、科学史の文献を読む際にフランス語やラテン語の壁にぶち当たり、その点でも丁度これから何か手を打たねばならないと思っていたところです。それでラテン語とは何なのかどう勉強するのかなど、本(逸身喜一郎『ラテン語のはなし』2000年大修館書店)を取り寄せて、最近入手したばかりです。

    このような事情なので、哲学や語学の専門家でもなく当然正確性にも欠けますが、一応気になった点を述べて見たいと思います。

    まず、日本で「コギト」が取り上げられ、流行っているのにはその訳や前提のことがあると思います。

    一つには、ガリレオとの関係でよく言われていることですが、デカルトは『世界論』を書きます。ところがガリレオが宗教裁判にかけられ有罪となります。この事情のせいで『世界論』の刊行は断念されます(岩波文庫谷川訳「方法序説」、解説)。

    断念した理由が「方法序説」の第6部に書かれており、第5部には『世界論』の「エッセンスが素描」され、「宇宙観と人間観も、大きな危険を孕んでいた」とのことです。

    「コギト」はこの方法序説の第4部に書かれております。当然デカルトの人間観がカトリックの思想との強い軋轢関係にあること、そしてその理由を探る時「コギト」は(取り上げる)必須のキーワードとなってくることは間違いないと思います。

    この「方法序説」(や「方法序説」の展開部分(幾何学や光学等について書いたものを含め)は書いた当時書物として公開されず、死後公刊され著作として公開されたとのことなどから、上記の『世界論』と内容的に通じているのは間違いありません。

    二つ目は、「コギト」という言葉がラテン語であるということにあると思います。デカルトは「哲学」の学者であり、中世の学者が本を書き公刊し、公開する際にはラテン語を使用します。

    「哲学」とは何やら難しいことを考え表現したことを本に書きます。デカルトの著作と今は死語になっているラテン語とが結びついた時、日本人は魔法にかかったようになると思われます。

    もちろんデカルトの「方法序説」は、学者として本はラテン語で書き、国を超えて著作を共有しなくてはならなかったのに、最初デカルトはこの本をフランス語で書きました。

    そして「コギト」というラテン語は本の中ではどういう文脈で書いたかのかということに興味を持たされます。

    デカルトの「方法序説」は、複数人の神父によりラテン語に訳され、デカルト自ら校閲したとのことです(岩波文庫旧版落合訳「方法序説」、解題)。

    訳者もフランス語版で意味が取りにくかった箇所はこのラテン語版を参照したと言うことなので、フランス語版とラテン語版の2つでデカルトの思想をよく捉えることが出来るとみてよいでしょう。(ラテン語は論理を展開することに適した言語とのことです。恐らく主語や目的語などが明確に判断できるためと思われます。)

    日本では「われ考える故に、われあり(コギト・エルゴ・スム)」が一般化しているので、「コギト」はラテン語で書かれていると考えがちです。

    実際には「方法序説」はフランス語で書かれています。そしてここに相当する箇所はフランス語なのかラテン語なのか、興味があります。

    日本語ではどうなのかというと、新版と旧版の岩波文庫では{ }あるいは「 」で括られています。明らかに他の部分と字体が異なることが分かります。ひょっとしてフランス語に混じり、この部分だけはラテン語で書かれているかもしれません。

    その箇所は(近年グーグルで原文を見ることは可能です)フランス語のイタリック体で書かれています。ラテン語で cogito, ergo sum. に相当する箇所は ie pense , donc ie suis となっています。(i → j)

    同じく「方法序説」のラテン語訳の本も原文を見ることは可能です。ラテン語訳の「方法序説」では、ego cogito, ergo sum と書かれております。
    まさに、ラテン語とフランス語の「方法序説」とは、相互の単語を1対1に対応させております。

    もちろん原文も後世の人が辻褄に合うように訂正して編集して出版したかもしれません。ですから必ずしもデカルトが書いた本とは言えない点があり、非常に心配です。しかも日本語訳の「方法序説」の原文として掲げた本にある出版した年と私が参照した本の出版年とは明らかに異なっていました。

    以上のように、「コギト」の前提について簡単にまとめました。

    この前提に立って、残りの興味のある点は、①「コギト・エルゴ・スム」の変更②だれがデカルトのこの言葉を「コギト・エルゴ・スム」(デカルトが言ったのは正確には「エゴ・コギト・エルゴ・スム」と書いた)と紹介したのか、という2点が残っているのではないでしょうか。

    岩波文庫の新旧版の訳者の訳を紹介する前に、逸身氏のラテン語からの解説を紹介したいと思います。この「コギト」のみならず各章の冒頭には馴染みのあるラテン語の成句が掲げられその次には簡単な解説が書いてあり、解説だけを読んでも読みごたえがあります。

    成句は西欧では常識的な文言かもしれませんが日本人には注釈や解説がなくてはさっぱり分からず、これが西欧流の表現やものの見方なのかと感心する点でもあります。

    「コギト」に関してもそう言った種類のものなのでしょう。逸身氏は哲学の領域にも踏み込んでいます。西欧の論理を問う成句なのだということが分かります。問いと答えとの訓練を、ギリシャ・ローマ時代の例(成句)の中にはよく含まれているので、これらの成句で行ったと考えられます。

    逸身氏の解釈は vivo, ergo cogito 「私は生きている、ゆえに私は考える」「哲学者は勝手」ということを言っております。成句は恐らく哲学の根本問題の問いの発し方の一つの例かもしれません。どんな答え方であってもよいのだろうと言うことかもしれません。

    岩波文庫の訳はその点懇切に訳しております。新版では「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在り〕]と注釈なしで書き下しております。

    旧版文庫では「私は考える、それ故に私は有る」としています。そして8ページにも渡り訳注を記しております。その中でフランス語のラテン訳として ego cogito, ergo sum, sive existo と紹介しています。

    いずれも哲学的著作はすでに個人が亡くなった後には、解釈する人の目の付けどころに従い種々の解釈が可能であることを示していると思われます。

    「コギト」は「方法序説」の第4部に書かれているのですが、デカルトは他にもラテン語の著作が多くあります。そこではどのように表現されているか、同様に探ってみました。

    原文を検索し調べたのは、「省察」(1649年)と「哲学原理」(1672年)の2つです。

    「省察」p44にはイタリック体で前後と字体を変えて、ego cogito : itaque existo
    とあります。
    また Sum cogito: Sum dum cogito
    (p94)と表現している箇所もあります。その他 cogito で検索すると、多くの場所で使用しております。

    また「哲学原理」p2とp3に同じくイタリック体で ego cogito, ergo sum
    とあります。

    cogito という単語はデカルトの著作(「省察」)の中によく出てきます。それは彼にとってこの cogito がキーワードとなっていることの左証ではないでしょうか?「方法序説」と「哲学原理」ではそれぞれ2箇所出てきただけです。ただ字体をわざわざイタリック体に変えているので、その語句を強調しているのだと思います。

    したがってデカルトの哲学を特徴は、例えば一言で表現せよというと、やはりこの「コギト」にあるのではないでしょうか?

    デカルトは彼自身危惧していたのは、著作物がキリスト教の哲学(教義)に反すると見なされ恐れがあったということです。その理由はこの「コギト」にあるのではないか、と推測されます。

    彼自身もそのことに気づいていたのはないでしょうか。当時の教義では、人の存在やその存在理由あるいは存在価値は「神」から与えられた物であると考えていたからでしょう。

    それを彼の言葉を借りると、自分があるのは(「神」が作ったからではなく)私が考えているからだ、と言いたかったのかもしれません。

    この人間の存在理由が「神」ではなく、そもそもが自分にある、人間にあるのではないかと考えるようになったということは、当時では“コペルニクス的転回”であるに違いありません。

    このことを最初に言い出したのはデカルトであり、彼をして「哲学」が初めて「人間」のものになったのだとも言えます。この神と人との関係を取り上げるようになったのはデカルトが出発点でもあります。

    西洋の伝統の一つはキリスト教ですが、17世紀になると一方にガリレイがいて、一方にデカルトがいるというそのような伝統が出てきたことに、注目することが出来ます。

    そう解釈すればこの「コギト」も意味がとれるのではないでしょうか?

    もちろん一方のガリレオの一言も日本では「それでも地球は動く」とすぐ出てきて、それはガリレオが言った言葉ねとすぐ出すことができます。

    ところで、ブログを読んでいくと、次にはひょっとしてラテン語の4文字「エゴ・コギト・エルゴ・スム」を日本では「コギト・エルゴ・スム」と省略して紹介した人がいたのではないか、という疑問がわきます。

    西欧では「コギト・エルゴ・スム」は成句の一つであり、ラテン語を教養として学んでいるので、この成句が実は「エゴ・コギト・エルゴ・スム」であることは、すでに常識となっているのではないでしょうか?

    日本語では訳は“われ思う故にわれあり”であり、原文に戻り忠実に「エゴ」を訳してくれています。エゴを「われ」と訳しているので、正確に訳していて実は名訳となっています。

    これを主語を省略して「コギト・エルゴ・スム」のまま、「思う故にわれあり」とすると、どこか間が抜けて、何なのと質問したい気持ちになります。

    逸身先生は、この質問したい気持ちや哲学するこころを本の中で、 sum ( I am ) に表現していると詳しく書いて解説してくれています。

    では「コギト」の4文字「エゴ・コギト・エルゴ・スム」を、3文字の「エル・コギト・スム」に省略したのは誰だったのか、文庫の「方法序説」(新旧版)を読んでもそんなことは書かれていません。原文をみても書物の中にはきちんと ego cogito, argo sum と書かれています。

    旧版の「方法序説」には解題にデカルトとメルセンヌ神父との手紙のやり取りの記述があります。手紙の中には簡単に cogito, argo sum と省略した可能性もあります。

    結論から言うと、どうも西欧でも4文字の「コギト」に代わり cogito, ergo sum という形で一般化しているようです。( https://la.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum )

    なお Wiki の「コギト・エルゴ・スム」には「 cogito 」へのリンクがあり、そこにはロダンの「“考える”人」の写真が掲げられて、「コギト」自身も西欧では哲学の基本的タームであることが分かります。

    ここでもだれが短縮したか明確に書いてありません。Webではスピノザの
    “ Renati Descartes Principia philosophiae, more geometrico demonstrate “ ( 日本語訳『デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 』)が参照されているので、きっとスピノザが3文字に短縮して考えたのでしょう。

    なお、このスピノザ、デカルトの「哲学原理」を正面から取り上げ論評していることがこの書名から分かります。しかもスピノザ自身がユダヤ教徒から出発してある種の無神論を唱えたので、西欧の伝統でも「神」と「人間」との格闘を「コギト」する時、スピノザは外せない人であることは確かです。

    デカルトの成句はすでに成句として成立しているので、日本でも「エルゴ・コギト・スム」はデカルトの哲学のエッセンスとして、ここの「コギト」の短縮形が頭からあるとしてよいのではないでしょうか?そうすると「コギト」が単にデカルトだけの言葉ではなくて、スピノザやカント等々に繋がる広い西欧流の思考の一端がこの言葉(成句)の背景にあることが気づかされることになるのではないでしょうか?

    1. yuzo_seo

      yoder_tkoさん、コメントありがとうございます。以下、繰り返しになりますが、コギトに関して、簡単にまとめておきます。

      ラテン語版のデカルトの書物で、ego cogito ergo sumという言葉が書かれたのは、デカルト自身がラテン語で書いた哲学原理と、デカルトがフランス語で書いたものをクルセルがラテン語に翻訳した方法叙説の二つです。

      方法叙説は、クルセル訳ですが、デカルトの監修下に翻訳したといわれており、主語がついているのはデカルト自身の考えによる可能性が高いでしょう。(哲学原理に主語がついていますので、いずれにせよcogitoに主語を付けることがデカルトの考えであることは明らかなのですが。)

      この言葉が、主語を伴わない「コギト・エルゴ・スム」として一般に語られている理由は、ラテン語は一人称の場合に主語を省略することが一般的であるためと、私は考えております。また、デカルト以外の人が書いた書物や格言集にこの言葉が主語を落とした形で引用されたことが、主語なしの形で広く伝わるようになった原因と思われます。

      実は、ラテン語は、一人称の場合に主語を落とすことが一般的なのですが、主語を強調する場合には、主語をあえて記述するとされております。デカルト自身の書物が、主語を記述していることは、デカルト自身に主語を強調する意図があったと考えてよいでしょう。

      ブログにも書きましたように、今日の論理学では、「われ思う」という命題の中には「われあり」を含むとしております。デカルトの時代にはこのような常識は存在しておらず、これを明示するために、主語を強調する形の記述としたのではないでしょうか。

      「元カレと喧嘩した」という言葉から「元カレあり」を知ることは、当時でも普通に行われていたでしょうが。

      「われ思う」にすでに「われあり」が含まれておりますので、「われ思う、ゆえにわれあり」は「われあり、ゆえにわれあり」と同等であり、この論理はトートロジーに他なりません。

      もう一つ重要な点は、デカルトが同時代の哲学者と草稿を交わしながら書き上げた「省察」が、「ego sum, ego existo(我あり、我存在す)」であることです。コギト命題が一般人向けにフランス語で書いた叙説とエリザベート皇女に捧げられた哲学原理にのみ記されたという事実は、この言葉が哲学の本質にかかわる重要な命題なのではなく、哲学を専門としない一般の人々に向けた言葉として提示されたことを物語っております。

      さすがのデカルトも、トートロジーを専門書に記すことは、憚られたのでしょう。

      これをトートロジーとしておりますことは、私のブログでも読んでおります三浦俊彦著「論理学入門」などの論理学の入門書を読めばご理解いただけると思いますし(命題は意味のあるものでなければならない=主語とされたものが存在しない場合、その命題は真とは言えない、ということですね)、先の私のブログに追記いたしましたように、カントもそのように解釈しており、まずこの考え方が正しいであろうとかなりの自信をもって言えると考えております。

      以下、参考までに、原典のURLを掲げておきます。このURLで該当ページが出てくるはずです。

      哲学原理:http://echo.mpiwg-berlin.mpg.de/ECHOdocuView?url=/mpiwg/online/permanent/archimedes_repository/large/desca_princ_081_la_1644/index.meta&start=21&pn=26&mode=texttool&viewMode=images

      方法序説:https://books.google.co.jp/books?id=nEM7AQAAMAAJ&pg=PA2&dq=Renati+Des+Cartes+Specimina+philosophiae+seu+Dissertatio+de+methodo:+Rect%C3%A8&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=cogito&f=false

      (10/5追記:省察:https://books.google.co.jp/books?id=rT146e7J-fMC&pg=PA11&dq=%22des+cartes%22+meditatio+%22ego+sum%22&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%22ego%20sum%22&f=false

      google booksの文献は、左側の「この書籍について」をクリックすると、著者や出版年をみることができます。方法序説のラテン語版は、René Descartes, Etienne de Courcelles, Louis Elzevir, Apud Ludovicum & Danielem Elzeviriosと5者連名になっており、二番目がクルセルとなっております。メルセンヌの名前はこの中にはありません。以前のWikipediaは、方法序説のラテン語訳者をメルセンヌとしておりましたが、これはおそらくは誤りであり、コギトに主語を含めたことと合わせて、私が修正しておきました。

      コギトの主語を落とした者が誰かという問題ですが、Wikipediaではマルブランシュが「真理の探究」で落としたとしております。しかしながら、ラテン語の格言は、ヨーロッパの教養人がよく引用し、そのための格言集などもあったはずで、ここに主語を落とした形で掲載されると、後世の人々はみな主語を落とした形で引用することになってしまいます。

      ラテン語の格言につきましては、たとえばネギま1期のサブタイトルに出ております。中でも傑作は、第一回の“Asinus in cathedra”、「教壇にロバ」、今日でも通用しそうな格言ではあります。)

コメントは停止中です。