コンテンツへスキップ

妥当性を欠く「反共感論」批判

先日のこのブログポール・ブルーム著「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」をご紹介しましたが、これを肯定的に評した朝日新聞の書評紙面はこちらに)に対する少々解せない批判を目にしましたので、本日はこれについて論じることといたします。

その批判は、法政大学社会学部の教授を務めておられます中筋直哉氏によります「7年目の3月11日:佐倉統東大教授の書評に怒る」と題するもので、標題にもあります朝日新聞の書評子である「佐倉統東大教授」に対する反感をお持ちの様子ではあるのですが、その批判のコアと思われる以下の部分が、いろいろと考えさせる内容を含んでおります。

私の怒りの原因は、東大のお偉い先生が、他でもないこの日に、近代科学の絶望的失効ではなく、虚妄の優位を脳天気に述べ立てていることにある。7年前東大のお家芸だった、地震の予知物理学も、防災の土木工学も、原発の安全神話もすべて失効したにもかかわらず、佐倉のお仲間たちは恥知らずにもメディアに露出し続け、虚偽の物語を語り続けていたし、今も語り続けているのではないか。それを誰よりも先に批判しなければならないのが「科学技術社会論」なのではないのか。その批判の倫理的根拠は、他でもない「社会」、すなわち佐倉が馬鹿にしている、疑似科学に踊らされ、情動的共感しかできない私たちではないのか。

確かに3.11の東日本大震災は、原発の安全神話を崩壊させましたが、その安全神話なるものは合理的批判を抑圧する形で維持されておりました。この神話を作り出し守り続けたのは「原子力村」と呼ばれたた人々で、その部族的集団を結び付けていたのは、理性というよりは共感だったのですね。

原発を再稼働するにせよ廃棄するにせよ、その判断は、理性に基づく科学技術的判断によるしかなく、「疑似科学に踊らされ」た「情動的共感」などであってはなりません。

実際問題として、原発の再稼働を進める人たちのなかには、いまだに安全神話から脱却できていないような人びとも少なからずいるとの印象を受けています。これは、極めて危険な状況であるとすらいえます。

でも、これに対する人々が、疑似科学を肯定し情緒的共感で反対運動などを進めてしまいますと、あっさりとこれを否定されてしまいます。

まず否定されるべきは、佐倉が馬鹿にしている、疑似科学に踊らされ、情動的共感しかできない私たちではないのでしょうか。

もしかすると、いわゆるリベラルが力を失ってしまったのも、同じ理由によるのかもしれません。

以前、本ブログのエントリー「天才を殺す凡人と、これからの経営」で紹介しましたように、世界には共感性を重視する「凡人」が圧倒的多数を占めております。

だから、商売以外でも、政治的運動に取り組む際も、共感力をいかに獲得するかが成功のカギとなることは、たしかに事実といえるでしょう。

でも、共感力を使うべき場面は多数を得るため、他の政治勢力との戦いに勝つために使うべきであて、運動の方向性を決めるのは、共感性ではなく、理性でなければいけません。

共感性で決めてしまった目標や政治的主張など、ひとたび論戦となれば、とたんに説得力を失ってしまいます。

更に悲惨な結果を招くのは、そんな政党が政権を奪取してしまった時。あの民主党政権時代を考えれば、そのような事態がどれほどの大惨事を招くか、よく理解できるでしょう(東日本大震災以外の話ですよ。)

大衆運動の段階では共感性に訴えるとしても、行動方針を作る際は、これを創造性により見出し、理性で練り上げていかなくてはいけないのですね。

ポール・ブルームの「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」をご紹介したこのブログの以前のエントリーにも書きましたように、共感は公正ではないし、効率的でもなく、時には憎悪・暴力の原因となってしまいます。

原発やワクチンなどを扱う際には、特に、共感で方向性を決めてはいけません。当然のことながら、技術に係わる安全性の理性的な評価がまずなされなくてはいけないのですね。

それを、たとえば原子力に関しては、推進派も反対派も、ともに共感性に訴えるものだから議論が成り立たず、どこまでも平行線が続いてしまいます。

情動的共感しかできない私たち」、こんなものを認めてしまったら、議論は成り立たず、民主主義が土台から脅かされてしまいます。

とくに「リベラル」の方々には、この大事な原則について、よく考えていただきたいと思います。


間もなく新潟県知事選挙がおこなわれます。前回の選挙の結果を受けて思ったことを「原発の病理:新潟県知事選挙結果に思う」と題するエントリーに書いております。

こちらもテーマは原発ですが、立場は今回のエントリーと180°逆のように見えるでしょう。

私の中では、どちらの私の基本的立場も同じなのですが、、、


ところで、中筋氏のエントリーの終わりの方に、アダム・スミスが共感論を展開していたとのくだりがあります。これ、朝日の書評の最後の一文に触発されてのものですね。

ちょっと面白そうでしたので、ウェブをあたってみましたところ、岡山大学の新村聡氏によります「アダム・スミスの共感論と公平な観察者論」がこのあたりを論じておられます。

アダム・スミスは「国富論」を書いたことで知られる経済学者で、この書物の中で自由競争によって成り立つ市場経済を扱っているのですが、その前提は、参加者が皆、利己的に振る舞うことなのですね。で、共感の存在は人が利己的に振る舞うとの前提に反する事実となりますから、アダム・スミスもこのテーマを扱う必要を感じたのでしょう。

新村氏の解説を読む限りでは、スミスはまず同胞感情としての「共感」と「是認」を区別し、「共感」は共感する者の一方的感情であるのに対し、「是認」は共感する者とされる者の感情の一致であると致します。芸術作品を鑑賞する際に必要となるのは、スミスの定義によれば、共感ではなく、是認なのですね。

第二に、スミスも共感は相手との近さに応じて程度が異なり、公平には作用しないことを認めます。そして、「公平な観察者」なる概念を持ち出します。「公平な観察者による共感」が、反共感論に言う「思いやり」に近い概念であるように思われます。

そういうわけで、朝日の書評子がアダム・スミスを持ち出したことは、さほどピント外れではない、といえるでしょう。

一つ賢くなりました。