橋本愛喜氏の6/12付けBLOGOS記事「【新型コロナウイルス】こじらせた正義が生んだ自粛警察 日本社会の同調圧力の実情は」にコメントしました。
基本的には、日本人は農耕民族であった、ということなのでしょう。つまり、みんなが同じことをやるというのが社会の基本構造としてあるのですね。これは、日本に限らず、中国やその周辺国も似たり寄ったりだと思います。
で、これをイエ的社会と見抜いたのが川島武宣氏の『日本社會の家族的構成』(學生書房、1948年、岩波現代文庫「日本社会の家族的構成」所蔵)なのですが、青木保氏の「日本文化論の変容」からこれをご紹介すると、次のようになります。
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川島がここでいう「家族的原理」とは、次の四点に求められる。すなわち、
1.「権威」による支配と、権威への無条件的服従。
2.個人的行動の欠如とそれに由来するところの個人的責任感の欠如。
3.一切の自主的な批判・反省を許さぬという社会的規範。「ことあげ」することを禁ずる社会規範。
4.親分子分的結合の家族的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立。「セクショナリズム」。
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これを思い出したのは、先日の麻生氏の「民度」発言で、実は彼が高く評価しているのはイエ的社会に適合している人々なのですね。そういう人を「民度が高い」と評価する。
でもこれ、戦前の道徳で、戦後は否定されるべき原理であったはず。ところがこの精神を我が国の左翼が受け継いだのは、山本七平氏の指摘する通りで、皮肉にも「進歩的文化人」と呼ばれた人々が受け継ぎ、我が国の左翼・野党やマスメディアの基本原理にもなってしまった。
学校教育の場では、右の文部省と左の日教組の思想の根底がこれだから、我が国の学校にいじめ体質が定着するのもあたり前。同じ原理をマスコミから野党から与党まで、みんなが推進してきたのが日本社会というものでした。
これ、何とかなりますかねえ、、、
相当に難しいとは思いますが、そろそろ日本人も、基本的部分から考え方を変えなくてはいけないように、私には思われるのですが、、、
(ブログ版は、文章を一部修正しています)
まえにも少し書きましたが、塩野氏の「正しさの導き手を、宗教に頼ったユダヤ人、哲学に頼ったギリシャ人、法に頼ったローマ人」
戦前の日本では、宗教。
そして戦後では、各々が正しくなる考え方である哲人をもとに考えた形態。
早くローマ人になれるといいね。