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須賀原洋行著「現象学の理念(原作:フッサール)」を読む

MechaAG氏の記事に触発されて須賀原洋行著「現象学の理念(原作:フッサール)」を読んでみました。内容の正しい紹介でもなければ、フッサールの主張の解説でもないことをあらかじめお断りしたうえで、以下、いくつかのポイントについて、私の感じたことを書いておくことといたしましょう。


方法論としての現象学と禅

まず、同書の最初付近の面白い部分、フッサールの化身と思われる仏猿(ふつさる)があるじを務めるラーメン屋にお客がやってきてラーメンを食べた後の会話をご紹介いたしましょう。なお、同書は絵のある漫画ですが、ここではセリフのみの御紹介です。

仏猿:お客さん… 最初、スープを飲んだ時に「うまい」という声を発したよね
お客:ああ、本当にうまかった
仏猿:その瞬間の感覚、自分の中に生じた「快」……その一点に集中して思い出してみて
お客:スープを飲んだ瞬間……? (以下、回想シーン)
……
……
お客:う ま …… (回想ここまで)
仏猿:そう、そこ!
仏猿:あんたは今、フッサールという哲学者が自分の哲学の基礎においた「現象学的還元」という手法を実行して純粋直観による「快」を直接、観取したのだ!
お客:いや、そんな……難しいことをしたおぼえは……
仏猿:逆、逆
仏猿:難しいことをまったくしなかった、ということなのだ
お客:???
仏猿:お客さんは、魚介と肉のうまみだの、コクだのキレだのデュラム小麥だの、いっぱしの知識があるようだけど、現象学的還元というのはそういう既存の知識や経験をいったんカッコに入れて横に置いといて
お客:???
仏猿:スープをあなたが味わったその瞬間にあなたが持っている知識や先入観などはいっさい関係なく感じたうまいという「快」、それは、「うまい」という言葉以前の純粋な直観なのだ。あなたは今、自分の内部にあるそれそのものを取り出すことに成功した

このお話は、禅の目指す、言語化される以前の世界への気づき、とほとんど同じです。たとえば以前のこのブログでご紹介した鈴木大拙師が「東洋的な見方」に書かれた以下の部分は、上の文章とほとんど同じことを語っております。

宋代第十一世紀のころに、茶陵(とりょう)郁(いく)和尚というのがあった。そこへ慮山から勧化僧が一人来た。話のついでに、郁和尚はこの僧に向かって禅について教えを受けたいと頼んだ。慮山からの男は、こんな話があるといって次のように話した。昔坊さんが法灯和尚に尋ねた、「百尺もある竿の先に登って、なおそれから一歩を進めよということを聞きますが、それはどうしたことでしょうか」と。そしたら法灯は何ともいわずに、ただ「唖(あ)」と叫んだ。これは危ないことでもあるとき、知らずしらず、出るところの一声である。郁和尚はこの話をきかされて、どうしても腑に落ちなかった。
……
ある日他所へよばれて行くとき、驢馬に乗って行った。橋を渡らんとすると、橋の板が一枚破損していたので、驢馬が踏み誤って倒れた。背上の和尚はびっくりして「唖」といった。その時、今まで頭の中でもやもやしていた疑団が忽然破裂して、彼は大悟した。百尺の竿頭をふみ切った。

ここで和尚が掴んだものは、大拙氏が「大地」と呼ぶものの端緒なのでしょう。彼はまた「日本的霊性」の中で歎異抄を紹介して以下のように語ります。

この教文でうかがい知られることは、第一に親鸞の宗旨の具象的根拠は大地に在ることである。大地というのは田舎の義、百姓農夫の義、知恵分別に対照する義、起きるも仆(たお)れるも悉くここにおいてするの義である。

大地が政治的・経済的に意味をもつものである事実は言うまでもないのであるが、またこの事実によりて、大地は我らの肉体そのものであることも了解できるであろうが、親鸞宗の大地はその宗教的意義すなわちその霊性的価値である。

この価値は京都的公家的上皮部文化からは出てこないのである。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめ給う」というのは、決して徒爾(とじ)ではないのである。

時代の背景を想像して、常陸地方からはるばる上京して来た田舎の人々を考えて見ると、親鸞と彼らとの関係が決して概念的・形而上学的・言語文字的なものではないということが看取せられる。かれらのつながりは大地的であったのである。

「南都北嶺の学者たち」のあいだでは見られなかったものがここに在ると言わなければならぬ。親鸞が京都を離れる機縁を失っていたなら、こんなにまで彼の心は大地に食い込まなかったであろう。

結局のところ、親鸞は越後に流配されることにより、言語世界以前の「大地」を知り、これが彼の宗教の基盤となったというのですね。この「大地」、仏猿の言う「純粋直観」とほとんど同じなのですね。

カントの認識論と現象学

現象学的アプローチは、カント哲学とほとんど同じ考え方であるけれど、これを論理的に徹底するという形式をとっています。この論理的なこだわりがフッサールのフッサールらしいところなのでしょうが、このお話は複雑を極め、私にもなにがなんだかわからないため、いったん棚上げすることとします。

棚上げ、、、フッサール流には「エポケー」なのでしょうが、「アウフヘーベン」の方が、語感的にはしっくりしそうな感じがいたします。思想界での意味は違うのですが、、、これは余計な一言でした。

で、カント哲学のベースは、人はモノ自体を知り得ない、ということであり、感覚器官(感官)の向こう側のものを人は知り得ず、感官のこちら側に現れた(モノ自体に対応する)「表象」を人は知るのみである、と主張いたします。

ここで「表象」とは心の中に現れた姿であってフッサールの言う「現象」と同じなのですが、カントは「現象」という言葉を、感覚器官のこちら側に現れた姿の他に、思考によりモノとは無関係に作り出されたイメージを加えて「現象」と呼んでいるため、ここでは、カント思想に対しては、あえて「表象」という用語を使うこととします。

カントは、人の精神的な働きのうち、広義の「知性」を「理性」と「悟性」の二つに分けます。(最近の日本語訳で、かつての「悟性」を「知性」と訳しているものがあることにご注意ください。)

「悟性」とは、言語化以前の知性であり、英語では「アンダースタンディング」と訳される「理解力」ともいうべき能力です。これが表象をカテゴライズし、言語化、数値化、論理化するのですね。で、こうして得られた概念化された世界認識に対して理性が論理を展開し、論理的数値的な判断を下す。

そしてカントは「純粋理性批判」という著書の表題が語るように、理性の限界を指摘し、悟性を重視するよう主張します。これは、禅や現象学のアプローチと相通ずるものがあるのですね。これはまた、近年明らかになってきた理性の限界ともよくマッチングいたします。

また、研究開発の現場では、すでに知られた論理をひねくり回していても優れた研究成果は得られない。全く新しい現象は、未だ言語化されていない、眼前の事物から直観的に把握されるもので、面白いとかおかしいといった感覚から気づかれるものなのですね。

学校教育で優秀な成績を収める人と、一流の研究者とは違う、というのはおそらくこの点にあるのであって、理性に優れた人は学校の試験では高得点を得られるとしても、研究開発に必要な、言語化されていない現象の中にある本質を読み取る能力、つまりは悟性が優れているかどうかは別問題だということなのですね。

そして我が国の科学技術を高めるためには、後者を育てていかなくてはいけない。それが禅問答みたいなことになりますと、ことはなかなか容易ではありません。どうすればよいのでしょうね。

以前のブログでご紹介した江崎玲於奈さんによれば、優れた研究者を育てるには「テイストの良い(優れた)研究者の下で学ぶことである」ということで、これがかなわない場合は、優れた研究の生まれる過程をケーススタディーするなどの方法をとることになるのでしょう。いずれにしても、悟性に優れる人間を選んで育てるようにしなければ、効果は薄いと思いますが。

そういえば、以前のブログで、遥洋子氏の「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」をご紹介したことがありましたが、この中に、上野千鶴子氏がフェミニズムという着想を得る裏話が紹介されています。

「日本でリブが産声を上げたのは1970年、安田講堂の攻防が敗北に終わったあとのことである。大学闘争が解体し新左翼が末期に向かったときに、日常性のただなかを「戦場」として、リブは誕生した。(「連合赤軍とフェミニズム」)」と上野は書く。
……
上野は連合赤軍事件のことをこうふりかえる。「わたしを含む全共闘世代のひとびとにとって、見たくない過去、できれば忘れてしまいたい歴史の汚点(同前)」

その時代に青春を迎えた当事者の実感は、世代の違うわたしからはうかがい知れないものがある。しかし大塚栄志は上野をこう評価する。

永田洋子の手記にちらつき、彼女自身がうまく言語化できないでいる男性支配的な価値への生理的な違和は、'80年代に上野千鶴子らによってフェミニズムと名付けられ(「永田洋子と消費文化」)

「汚点」は、その形をまったく変えて、フェミニズムへとつながっている。

これはこれでショモナイ話と思われる方が多いかもしれませんけど、「うまく言語化できないでいる男性支配的な価値への生理的な違和」という非言語的な問題を上野千鶴子氏が言語化し論理化して「フェミニズム」という新しい視点を得ているのですね。その最初のステップは、理性ではなく、悟性の働きによるもので、こうして新しい学問領域が誕生することになります。

言葉の意味するところ

カントは、言語化された認識に限界があるとしながらも、言葉を用いて彼の哲学を語っております。一方、禅師は、言葉による理解ではなく、大地から直接認識を得ることを目指し、言葉による説明は最小限にする。先の引用部に示した法灯の言葉は「唖(あ)」の一言のみであり、これから何かをわかれというのは無理があります。

言葉の無力さを悟る禅師が言葉で語ろうとする、ここには相当な無理があり、だからわけのわからない会話を「禅問答」などというのでしょう。でも上の例でも、これを聞いた和尚は馬から落ちそうになってその言葉の意味を悟る。この言葉に全く意味がなかったわけではないのですね。

以前のブログで議論したように、言葉を用いて書物を書いている以上、そこには語用論的前提が成り立っていると考えるしかありません。これは、言葉というものが存在し、発信者と受信者(未来の自分自身を含む)が存在し、両者の間で概念の共有ができていることが前提となるのですね。

これは、他から証明される命題ではなく、最初から成り立っているとしてアプリオリに与えられる「先験的命題」ないし「超越論的命題」と呼ばれるもので、さしあたりは「自我」の存在がこの命題となります。これは、以前このブログでご紹介いたしましたように、リオタールが「現象学」の中で以下のように説明する通りです。

近代的精神の特性は、論理的-数学的な形式化と、自然に関する認識の数学化である。つまり、ライプニッツの普遍学とガリレイの新しい方法論である。こういう基盤の上に、客観主義が展開するのである。ガリレイは世界を応用数学として示すことによって、意識の作品としての世界をおおいかくした。したがって客観主義的な形式主義は疎外的である。……

ときにこの疎外は、物的なものを手本として心的なものを構成するか、それとも心的なものを厳密に研究することを断念するか、二つのうちのいずれかを選ぶことを余儀なくした。

デカルトは先験的なモチーフを導入することによってこれの解決を予告する。コギトによって、現象としての世界、コギタートゥム cogitatum[思考されるもの]としての世界の真理が、彼に与えられる。

そのとき、魂および神という形而上学的なアポリアに通じる客観主義的な疎外は、消え去る―もしくは少なくとも消え去っていたであろう。もしデカルト自身がガリレイ流の客観主義に欺かれて、先験的コギトと心理学的自我を混同しなかったならば、そうなっていたであろう。

しかし、思考するものとしての自我というテーゼは、すべての先見的な努力を水泡に帰せしめる。ここから、デカルトの二重の遺産が出てくる。一つは形而上学的合理主義で、これは自我を消し去る。もう一つは懐疑論的経験主義で、これは知識を破壊する。

客観主義にその真の根拠を与え、客観主義の疎外力を除き去るのは、ただ先験主義だけである。というのも、先験主義はすべての知識を根本的な自我の上に結びつけるが、この自我は意味付与者であり、直接的な生の世界の中で、客観化以前的な、科学以前的な生を生きているからである。

そして精密科学は、そういう生の外被でしかない。先見的哲学は、客観主義と主観主義、抽象的な知識と具体的な生との和解を可能とする。

学問が成り立つためには、思想が普遍化されなくてはならず、これには、他者の存在が前提となります。他者に関しても、フッサールは解を与えており、これが有名な「相互主観性(間主観性とも)」ということになります。

そもそも、現象学が成立した際の大問題は、「客観」というものがあり得るかどうかという問題で、「客観」がないなら、あるいは人が客観に到達することがあり得ないなら、そもそも学問というものが成り立たないという大問題がありました。

これに対するフッサールの解は、「客観」を「人々の外部にある絶対的な真実」とするのではなく人々に「人々に共有された主観」である「相互主観」の上に「客観」を再定義いたしました。これは確かに、学問的真実が、学会などの人々の集団に共通して支持されることによって成立することと、平仄があっております。

この部分も、以前のブログでご紹介いたしましたフッサールの「デカルト的省察」から引用いたします。

客観的世界がもつ存在の意味は、私の原始的世界という基礎のうえに、多くの段階を経て構成される。

最初の段階として際立てられるのは、私の具体的な固有存在から(原初的な我としての私から)は排除されていた我である「他者」、あるいは「他者一般」の構成という段階である。

それと一つになって、しかもそれによって動機づけられて、私の原初的な「世界」のうえに一般的な意味の積み重ねが行われ、それによってこの「世界」は或る特定の「客観的」な世界「の」現象、すなわち私自身をも含めて万人にとって同一の世界「の」現象となるのである。

それゆえ、それ自体で最初の異なるもの(最初の「非-自我」)は他の自我である。そして、これが構成という観点からすると、異なるものの新しい無限の領分を可能にする。

つまり、客観的な自然を可能にするとともに、あらゆる他者とともに私自身もそこに属する、およそ客観的な世界を可能にするのである。

何をベースにしたらよいか

と、いうわけで、フッサールのなし得たものは非常に大きいのですが、現象学的還元の位置づけとなりますと、私にはその意味が良くわからない。

これは、禅などを最初から知っていたからであるのかもしれないのですが、そういうことであるならフッサールなどの難解な書物を読むよりも鈴木大拙氏の著作を何冊か読めばことが足りる。そっちの方が、全然早いし、面白いのですね。

ニュートンの万有引力にしても、リンゴも月も同じ地球の重力が引っ張っているという結論は面白いのですが、これを証明するためには、球殻の外部に作用する万有引力はすべての質量をその中心に集めたものの万有引力に等しいという証明をまず行わなくてはいけない。そしてこの証明が難しいのですね。

でも、ニュートンの業績をわれわれが利用する際には、球殻の万有引力がどう作用するかなどということはいちいち考える必要がない。結果だけを利用すればよいのですね。現象学的還元も、同じようなものではないでしょうか。そうであるなら、成果だけ使わせていただけばよいのですね。

で、フッサールの成果をカントやデカルトの業績の上に積み重ねれば、なるほどアプローチが見えてくる。つまり、相互主観の上に学問は構築されなくてはいけないし、書物もこれに普遍的な意味を持たせようとするなら、同じアプローチをとらなくてはいけない。

そして、相互主観の上で議論するなら、言語や既知の論理はそのまま使って差し支えない。それが「語用論的前提」というものであって、これらの存在はアプリオリに与えられる。つまり「原理」というわけです。

こういうベースでこれまでに書きました私の世界理解をちょっと書き足したいところですが、時間の制約となりました。ここまでのところで、一旦公開しておき、残りは余裕をみて書き足すことといたします。


8/30追記:MechaAG氏が反論(?)を書かれています。氏の文系批判に関しては、いずれきっちり議論することとして、今回はこれには立ち入らず、ここではフッサールの現象学の位置づけに関わる部分を少し議論しておきましょう。

まず、今日の世界観の主流は「素朴な自然主義」というもので、MechaAG氏の立場もこれではないかと思います。この立場は、人は外的事物を充分な正確さで知ることができる、という立場で、これとは独立に「我」があると多くの人は考えております。

この考え方は、キリスト教などの宗教を信じる人には受け入れやすく、つまりは、自分自身は、物質世界に属する身体と、これとは別の存在である霊魂が合体したものである、と考えるわけですね。

この考え方は、デカルトに発するものと一般的に考えられており、デカルトは「心身二元論の祖」ともされております。人の霊魂は、脳の一器官である脳下垂体に座すと、デカルトは考えたのですね。

まあ、なぜ脳下垂体かといいますと、脳の他の部位は左右対称になっており、それぞれの期間は二つづつある。で、一つしかないのが脳下垂体だからだったのではなかろうか、と私は邪推しているのですが、さしあたり、霊魂が意識をつかさどると考えれば、難しい議論は避けて通れます。

でもその後ニュートンが登場し、宇宙のすべての物体はニュートン力学に従って運動している、としたのですね。ここで、人体といえどもその例外ではない。人間は、物理法則に従って運動する物体である、というのですね。

そこでカントの一つのアポリア(難問)が生まれます。「人には自由意志はあるのか」という問題ですね。

もちろん、霊魂という、超自然的存在を信じる人にとっては、これは難問でも何でもない。自由意志は霊魂がもっており、これが人体を操っている、と考えるのですから。

しかしながら、今日の自然科学は、霊魂の存在を否定している。脳の様々な現象において、物理法則が成り立たない局面は観察されていないのですね。つまり、霊魂が意思を左右しているなら、物理法則に反する現象が生じていなくてはいけませんから。

自由意志などというものは、自らの主観世界に存在する。一方で、人の脳を自然科学に従って分析すれば、そこにあるものはニューラルネットワークの複雑な絡み合いで、自由意志などは存在せず、ただ物理法則にしたがった運動が観測されるのみなのですね。

でも一方で、人々は自らを物理法則に従う存在などとは考えていない。それどころか、物理法則を理解しているのは、ほかならぬ自らの精神であると考えているのですね。

主客の問題というのは、単に主観が客観を完全には把握できない、という問題にとどまらず、自由意志や人の認識と世界といった問題までを含む、幅広い問題であると理解すべきでしょう。

で、これに答えを与えたのが現象学だったのですね。

一つは、ブリタニカ草稿で、内的世界を捨象して外的世界を記述する自然科学に対応して、外的世界を捨象して内的世界を記述する「純粋心理学」を打ち立てんとしております。まあ、これがのちに現象学的還元と呼ばれるようになるものなのですが、、、

で、人間社会も外的世界であるとすれば、言語その他の社会的認識も捨てざるを得ず、主体と自然界の対話という、禅的な世界がそこに生まれることになるのですね。

一方、主客の問題は、カントが外界を知り得ないとした時点で、すでに大きな議論を呼んでおり、そこでカントは他者に依拠して、普遍性の獲得ということを議論しています。これは、ポアンカレにも引き継がれているのですね。

この考え方は、フッサールによって、相互主観性の上に客観を再定義するという形で、一応の完成形をみるのですね。

それを、余計な講釈を捨てて、ラーメンのうまさを知ることが現象学である、的なとらえ方をされると、ちょっと違うかな、という印象を受けるのですね。

まあ、フッサールの書かれたものは、きわめて難解で、大多数の人に理解されないことで有名なカントの書物以上に難解なのですね。

でもいろいろな書物を読むと、なんとなくフッサールの言いたいことが見えてくる。しかもそれが、実はたいしたことではない。

相互主観性の上に客観を再定義するというのは、フッサールのなし得た大きな前進だし、これで主客問題は解決したとする評論家が多いことは否定しません。

でも、そんなことは、カントだってポアンカレだって、古くはデカルトだってこれに近いことは言っているのですね。

もちろん、古い思想家が天下り的にこの議論を与えているのに対して、フッサールはきちんとした説明を与えているように見えます。きわめて難解で、私には読めないのですが、、、

ただこれらの説明は、学問としては重要かもしれませんけど、世界を理解する上では大した意味があるわけではない。もっと大事なことは、相互主観性の上に客観を再定義したことであって、これによって主客問題は解決された。これは、特筆すべきことだと思うのですね。

まあ、少々議論が発散しましたけど、夜も遅いので、このくらいで、、、


9/1追記:少し時間ができましたので、簡単にまとめておきましょう。

まず第一に、フッサールの最大の功績は、客観を相互主観性の上に再定義したことでしょう。これは、フッサール以前の思想界で主客問題が大問題となっており、フッサール以降は、この問題は解決済みとして扱われていることからも確かでしょう。

この解は、主観を自己のものだけではなく、他者にもあるとして、相互に共有された主観(相互主観、間主観)の認識するものを客観としたのですね。これに類似した考え方は、カントもプロレゴーメナの中で述べておりますし、古くはデカルトの記述にも似た趣旨のものが認められます。

客観とは、人の外部にある世界を意味するのが通常なのですが、他者の主観を取り入れることで古い客観の意味もカバーすると考えることは、それほど間違ったことではない。なんとなれば、他者と自己の主観が一致する理由は、自己も他者も同じ外的世界の中で生きているからであり、その一致(たまたま、ではない、確かな一致)は外的事物の存在を意味していると考えられるからでしょう。

共有された主観を客観とみなすことの妥当性は、新しい学説が社会に受け入れられるプロセスを考えても理解できるでしょう。新説は、論文や学会で発表し、それを他者が正当と認めるから受け入れられる。

そして、単純な機能しかないニューロンが多数接続されることで主観が生まれるように、人々が多数接続されることで脳に類似した知的作用を生じ、その結果として客観が生まれると考えれば、さほど不思議なことでもありません。

第二に、自然学と対になる形で純粋心理学を打ち立てんとしたことで、その手続きが現象学的還元ということになるのでしょう。

フッサールは、物理学に代表される自然学を高く評価しておりました。そして自然学の特徴を、主体を捨象して外的事物を扱うアプローチであると見なし、これについになる形で、外的事物を捨象して主体を扱おうと考えたのですね。

二つのアプローチを独立に想定することは、主体と外的事物を同じベースで扱おうとすると上で述べたように、論理展開が発散してしまうことからも妥当と思われます。

ただ、同じ効果は、主体を先験的(アプリオリな)存在として認めることでも解決され、このやり方は、コギト命題を立てた際に、主体の存在が意味論的前提であり語用論的前提であることからも正当化されます。

語用論的前提によれば、他者の存在と、彼らとの間のコミュニケーションチャンネルの存在もアプリオリに認められることとなり、上の第一のポイントも最初から成立していると考えることができるのですね。

この第二のポイントは、方法論であって、より単純なやり方がある以上、あまり重視する必要はないように私には思われるのですが、フッサールを研究する多くの方が方法論に注目されているのが実情であるように見えます。

たしかに、哲学を厳密な学として成立させようというのがフッサールの一つの目的であったわけで、相互主観といった考え方はカントの時代から存在したことも事実ではあるのですが、主客の問題に決着をつけたという功績を認めて、結果を利用する形で先に進めるのもよい考えだと思うのですね。

そういうわけで、この先時間ができましたら、相互主観の上の客観という着想で、どのような世界が描けるのか、という点に関して議論したいと思います。


9/2追記:MechaAG氏によるいくつかのコメントがなされております。

素朴な自然主義をめぐる問題:MechaAGしは「『人は外的事物を十分な正確さで知ることができる』なんて思ってないつもり」といわれるのですが、この「十分な正確さ」を、「他人との議論が成り立つ程度」と言い換えれば納得していただけるのではないかと思います。

問題は、素朴な自然主義に従えば、人々は外的事物そのものについて議論していると考える。しかし、カントによれば人はモノ自体を知り得ない。だから外的事物そのものについて議論することなどできない相談なのですね。

ならば学問など成り立たないという批判に対して、以前のブログでご紹介したように、カントはプロレゴーメナの中で次のように述べ、「客観的妥当性(物自体への妥当性)」と「普遍的妥当性(他者一般への妥当性)」を同列に論じることができるとするのですね。

そこで、客観的妥当性と〔すべての人に対する〕必然的な普遍妥当性とは相関概念である。そして、われわれは客観自体を知らないにしても、ある判断を共通妥当的、したがって必然的と見なすとき、まさしくそれによって客観的妥当性を意味しているのである。

つまり、カントによれば、人々はそれぞれの主観の中に現れた外界の見え姿について論じており、これが他者と共有される。フッサールの相互主観性とほとんど同じ考え方をカントもしていたわけです。

で、面白い点は、ハイゼンベルクはその著「部分と全体」の中で一節を「X. 量子力学とカント哲学」として、カント哲学者との議論を行った様子を紹介しておられます。同書を読む限り、ハイゼンベルクが何を理解したか、いまひとつ不明なのですが、彼に始まるとされる「コペンハーゲン解釈」がカント哲学をベースにしたものと考えると分かりやすい。

これは、以前のブログでご紹介した「宇宙を織りなすもの(上)」で、次のように紹介されていることからも妥当と考えております。

一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える。この立場によれば、測定を行うそのときまで、私たちは電子がどこにあるかを知らない。そして、電子の位置を知らないという事実が、さまざまな場所に存在する可能性として電子を記述する波動関数に表現されている。しかし、電子の位置を測定したとたん、電子の位置に関するわたしたちの知識は突如として変化する。

量子力学が対象としているのが、外的世界の事物ではなく、人が認識した外的世界、人間の脳内に構成されている外的世界であるとするなら、量子力学の不思議な話は何ら不思議な話ではない。人の知識が変化した、というだけの話なのですね。

そしてこれはまた、多世界解釈を同時に合理的に説明します。こちらも以前のブログでご紹介した「ハイゼンベルクの顕微鏡」によりますと、次のような説であるからです。

これは要するに、測定のたびに「観測者」が新しく発生し、その自我が無限に連鎖していくということである。エヴェレットは、一人以上の観測者がいる場合には標準的な解釈は適切ではない、と考えた。観測によって世界の記述は少しずつずれていくが、標準的な解釈とは異なって波束は収縮せず、重ね合わせの状態が維持される。波束の収縮という概念は捨て去られ、波動関数は無数の実在する世界の重ね合わせを表しているのである。エヴェレットに始まるこの解釈の系譜を「多世界解釈」と呼ぶ。現在ではいくつも流派があるようだが、大ざっぱには、可能性のある世界の中の一つが、自分の測定に対応して存在している(そして自分もその世界にいる)ということである。

観測者の数だけ世界が存在する。これは、対象としている世界が観測者の内部に構成された世界であるなら、至極当然の話なのですね。そして、観測者間のコミュニケーションにより、これらの世界間の同期がとられていく、というわけです。

とはいえ、これは今日の科学哲学界の常識にはなっていません。今日の科学哲学の世界は、ヴィトゲンシュタインに始まる論理実証主義をベースとする「素朴な自然主義」に従うもので、今日の思想界で支配的なプラグマティズムが形而上学を軽視する流れとも合致しております。

これは少々困ったことで、MechaAG氏の思想もこの流れの上にある様子なのですが、致し方ない話であるのかもしれません。

霊魂と自由意志の問題:MechaAG氏は、人間の肉体や漫画を構成しているインクは物理学が対象とする物体である一方、自由意志は漫画のストーリーに対応すると。この二面性自体は私の考えていることと同じなのですが、これが外的世界の存在であると考えておられるのですよね。

で、自由意志が存在するのは、量子力学的不確定性による、とお考えの様子です。自由意志の問題に関しては、以前のブログでもアルフレッド・ミーリー著「アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです」をご紹介しましたが、量子力学的不確定性は自由意志とは無関係と考えられております。

同じ問題は、別のブログでベンローズの量子脳というアイデアをご紹介しましたが、脳の中に量子力学的不確定性による決定機構があり、これが自由意志の源であるとするベンローズ氏のアイデアは、後に放棄されたことが、あとがきに書かれております。

自由意志の問題は、実は人の責任問題とも関係するもので、犯罪者の罪を責めることは一般的なのですが、それが単なる物理現象なり、量子力学的な偶然の産物であるのなら、本人の責任を問うことははなはだ理不尽な話なのですね。

まあ、人が物理法則にしたがう物体であるというなら、社会的に問題を起こす物体は廃棄処分にすればよい、とも言えないこともないわけで、、、(以下検閲削除)

物質(物理法則)と霊魂(情報)の関係:ふうむ、MechaAG氏は、心身二元論に基づいた世界観をお持ちなのでしょうか。IT技術などをやっている人は、情報も物質(つまり、ビットは半導体の導通状態なり磁性体の磁化の状態)と考えそうなものなのですが、、、

指がくたびれてまいりました。本日はこのくらいにしておきます。

3 thoughts on “須賀原洋行著「現象学の理念(原作:フッサール)」を読む

  1. mi.mino

    敬意とは「彼がなしたことに対する謝意」であり、これもまた「ありがとう」である。

    私は、言葉を見るとその感情にある行動と言葉を当てはめる。
    こうするとあいまいな言葉が生き生きとする。

    特に私は自らと他社に対して「愛」と「敬意」を大事にしている。

    カントやらフッサールについては概論程度しか読んだことがないのだけれど、実際に役に立つこととして、こういった使い方をしている。

  2. mi.mino

    須賀原洋行氏はモーニングやアフタヌーンで、「気分は形而上」、「よしえサン」を楽しくよんでいました。まだ元気に著作活動しているのですね。よかった。

    さて「愛」と何でしょうか?
     行動的にいえば「そのままで存在が許される姿勢を示す」ということであり、私が発声する言葉でいえば「ここにいていい」ということです。
     それでは、「感謝」とは、行動的に言えば「ただ単に、やってくれたことだけに対して好意的な評価をする」ということであり、私が発声する言葉すると「ありがとう」という言葉になります。

     やや抽象的な言葉については、言語化する前に、私はこれ言葉に、どのように行動し、どのような言葉で発声するかを考えます。

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