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かさこ氏の8/14付けBLOGOS記事「炎上DaiGo氏、計算され尽くした見事すぎる謝罪動画。すべては自分を守るため?!」へのコメント

かさこ氏の8/14付けBLOGOS記事「炎上DaiGo氏、計算され尽くした見事すぎる謝罪動画。すべては自分を守るため?!」にコメントしました。(先のコメントがBLOGOSで掲載拒否されているため、似た記事が複数アップされております)


問題が起こった時に下手に反論したりせず、とにかく謝る、というのが火消しのツボなのでしょうね。このような場合に問題がこじれるのは、言い訳をしたり、相手の問題を指摘したりした結果である場合が多いですから。でも、単に謝るだけでは、己の行為のどこが悪かったのか、全く理解できていないようにも思われてしまいます。正しい謝り方は、己のどこが間違っていたのかを自分の言葉で述べて、以後そのようなことをしないと、周囲に納得させることでしょう。

今回の行為の問題点は、生活保護を受けるような、経済的弱者に対する配慮が不足していたこと。かつての別の似たような炎上事件では、人工透析を受けるような肉体的弱者に対する配慮が不足していたことが原因でした。

弱者への配慮がなぜ重要かといいますと、実は、『社会的公正さ(フェアネス)の基本』が、この『弱者への配慮』なのですね。公正な社会は、多くの人が求めるものなのですが、その基本が弱者への配慮だということに気付かない人は多い。でもちょっと考えればわかるのですね。

人の能力は多面的で、身体能力の優劣もあれば、経済的能力の優劣もあり、文化芸術学問の領域での優劣もあります。そのいずれかの面で劣っているからといって、他のすべての可能性を奪うべきではない。それがフェアネスの基本であって、体力に勝るものが腕力にものを言わせて何でも好きなことをやって良いわけでもなく、経済力に優れるものが札束で頬を叩いて好きなことをやって良いわけでもなく、知恵の回るものがそうでない人をだましてすべてを巻き上げてよいわけでもない。

結局のところ、何らかの面で弱者だからといって、社会的に切り捨ててよいというものではない。経済だけがすべてではない。政治権力的弱者が切り捨てられているお国も、すぐ近所にある。経済力で人を切り捨てるのが許されるなら、政治権力で切り捨てるのもあり。それでもよいのかな?


返信がついております。

Mi Mino

>>経済力で人を切り捨てるのが許されるなら、政治権力で切り捨てるのもあり。それでもよいのかな?

彼らにとってはそれでいいんじゃないの。
すぐに経済界は政府はすぐに邪魔をする。
規制緩和だと大騒ぎ。

戦争している地区でも行けばいいのに


山下克也

民主主義国の場合、日本もそうだがセーフテイネットが整備されている。日本の場合には生活保護の方が、働くよりも所得が多くなると言う矛盾もある。

ダイゴ氏の場合、吸っ嫌いだと断っているので、その言葉まで集団的に攻撃するのは、リベラルの観点からも問題があると思いますね。 隣国の場合は、ルールがないようなもので、時の権力に敵視されると排除されるので、一応経済的ルールに従って勝敗が決まる民主主義国とは違いますよ。


瀬尾 雄三

山下克也 さん

今日の生活保護制度が必ずしも優れたものではなく、それどころか問題山積であるということは事実でしょう。でもそれは、経済的弱者に問題があるのではなく、所得再配分の制度に問題がある。しいて言うならば、政治家や官僚、あるいは学者の怠慢であるわけで、ベーシックインカムなどの新しい制度について、もっと研究を深めなくちゃいけない。

問題は、そういうテクニカルな部分にあるのではなく、より基本的、構造的な部分にあるのですね。我が国に住む多くの人の場合あるいはDaigo氏の場合は、今日の日本では、市場経済制度が社会のあらゆる部分を覆っているため、金こそがすべてと思いがちなのですが、そうでない社会もあって、武力がすべてという社会もあれば、共産党の社会秩序がすべてという国もある。

あるいは、学校教育の場では、勉強のできない人間は人格を否定されることだってあり得るわけで、CPスノーの二つの文化みたいに、物理学者のなかには熱力学の第二法則について正しい説明ができない人を新石器時代の人間並みにみてしまう人だっているのですね。

> 一応経済的ルールに従って勝敗が決まる民主主義国とは違いますよ。

と述べる山下氏にしても、他の社会制度を認めていないという点ではCPスノーの指摘する人たちと似たようなもので、シェークスピアなりディケンズを読まないという観点からは物理学者が無学であるのと同様、経済重視の社会が野蛮の極みであると考える人がいたって不思議ではない。一面的な思想にとらわれている自覚がないのは、みな同じ、というわけです。


山下克也

ダイゴ氏が社会的弱者を切り捨てるべきと言っているわけではないでしょう。ただ、自分は税金を沢山払っているので、残った自分の金はホームレスよりも捨て猫の方に使いたいという趣旨でしょう。

ホームレスは福祉事務所に訴えたり、自治体の借り上げたアパートで暮らすこともできますが、捨て猫は自分ではどうにもなりませんからね。

それはともかく、社会全体を動かすはずのない個人の好き嫌い発言にまで、寄ってたかって非難することはない。私はむしろワイドショーも含めて、その同調圧力の方が怖いので。社会主義は、その同調圧力を制度化しているので、個人的意見として否定してますよ。むろん、発展途上国の開発独裁は仕方がない。マルクスが原始的蓄積としたものの一種でしょうし。


瀬尾 雄三

山下克也 さん 

> ダイゴ氏が社会的弱者を切り捨てるべきと言っているわけではないでしょう。

ということですけど「ホームレス支援のために増税されてもいいのか」といった発言まで考えますと、自分の可処分所得をホームレスに費やすのではなく、猫に費やすという主張に限定されているようには全然見えないのですね。これを超えた主張が問題視されているのでしょう。

この問題は、社会福祉の問題ととらえる向きが多いのですが、私には、価値の多様性を認めようとしない、今日の風潮、分断されたものの考え方にあるように思われるのですね。このような問題は、ブルマとマルガリートの「反西洋思想」(新潮新書)(紹介はこちら)や、スポンヴィルの「資本主義に徳はあるか」(紀伊國屋書店)(紹介はこちら)などが注目している問題と同じなのですね(敬称は省略。)

ブルマとマルガリートは、オリエンタリズムとオクシデンタリズムの対立という形でこの問題を定式化します。幸せになるに値する人にならんとするオリエンタリズムと、幸せになる方法を追求するオクシデンタリズムというわけですね。スポンヴィルは、5層の秩序という概念を出して、経済、技術の層の上に、法律の層や道徳や宗教の層を置き、それぞれの層で議論されなくてはいけないと主張するのですね。

結局のところ、経済や技術を重視する生き方は、できることはやって良いという、アナーキーな生き方にもなりかねず、良く生きるためにはいかにあるべきかという倫理道徳の観点も追及しなくちゃいけない。そこで一つのヒントは、アレテーに即して生きよという、アリストテレスの多義的な主張で、今日倫理と訳されるアレテーという言葉の元々の意味が卓越性であること、これは、人の動物に対する卓越性に即して生きるほかに、個人は他者に対する卓越性を生かして生きよという、人の多様性を指摘する言葉でもある。今回の問題を考える際には、考えてほしい所ではあります。

1 thoughts on “かさこ氏の8/14付けBLOGOS記事「炎上DaiGo氏、計算され尽くした見事すぎる謝罪動画。すべては自分を守るため?!」へのコメント

  1. mi.mino

    >>経済力で人を切り捨てるのが許されるなら、政治権力で切り捨てるのもあり。それでもよいのかな?

    彼らにとってはそれでいいんじゃないの。
    すぐに経済界は政府はすぐに邪魔をする。
    規制緩和だと大騒ぎ。

    戦争している地区でも行けばいいのに。

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