本日は、筒井康隆著「文学部唯野教授・最終講義:誰にもわかるハイデガー」を読むことといたします。
読みは致しましたが、あまり論評することがありません。そこで、同書の簡単なご紹介と、ハイデガーの哲学について、以前もご紹介した木田元氏の「ハイデガー『存在と時間』の構築」を参照しながら、私の意見を述べることといたします。
誰にもわかるハイデガー
筒井康隆氏がハイデガーを読んだきっかけは、彼の著「文学部唯野教授」の中で解釈学を扱うことから、解釈学の祖とされるハイデガーの「存在と時間」を一月かけて読んだと語られています。
また、同書を書き上げ、音が一つずつ消えていく「残像に口紅を」を書き上げたところで、胃に穴が開いてしまい、個室の病棟に入院したところ、人の死に多く接して哲学的思索に目覚めてしまった、というようなことが最初に書いてあります。
で、ここで読んで得たものを書いたり講演したりされているのですが、さすがにハイデガーの思想を簡単に書くことは相当に困難な話であり、用語の解説に毛の生えた程度のお話にならざるを得ない、これは致し方のないことでしょう。
法人などの決算書の最期に監査法人の意見がついているのと同じように、同書の最後に大澤真幸氏の補遺がついており、この中で大澤氏は次のように語っておられます。太鼓判が押されている、と申しましょうか、、、
本書は、普通の意味での解説を必要とはしない本である。「文学部唯野教授」の講義は、わかりやすく、タイトルにある通り「誰にもわかる」からである。ハイデガーの主著「存在と時間」をこれ以上わかりやすく解説することは不可能だ。
最初にはっきりと記しておく。唯野教授の「よくわかる」解説は、『存在と時間』の理解としてはまことに正確である。子どもやサルでもわかるとか、一時間程度の短時間でわかるとかということを売りにした哲学の入門書は、巷に溢れているが、そのほとんどが原典の最も肝心な部分を逸している」。「確かにその本は一時間くらいで読めるかもしれないけれど、その内容は原典とは全く関係ないよ」と言いたくなるような本ばかりである。
しかし、唯野教授によるこの講義「誰にもわかるハイデガー」は違う。よくわかる上に『存在と時間』のエッセンスをまことに的確に抽出している。
と、すごい持ち上げようで、大澤氏は同書が筒井康隆一流のジョークを交えて書かれていることも高く評価されています。
書物のあとがきであれば、うまいもの探訪番組の出演者が出された料理を持ち上げるしかないような、浮世の義理があるであろうことは否定すべくもありませんが、全くの嘘でもなかろう、と少し安心して同書を読めることも事実ではあります。
同書は、内容も薄く、ページ数も少なく、厚いのは使われている用紙の厚さくらいなのですが、筒井康隆ファンには読んで損はないでしょうし、何よりもハイデガーを簡単に把握したい人には便利な一冊だと思います。
そもそも、こんな簡単な書物に多くを求めるのは、最初から考えが甘い、と自覚しておかなくてはいけません。
まあ、あたりまえの話と言えば当たり前の話ではあるのですが、、、
ハイデガーと「存在と時間」
存在と時間は、ハイデガーの主著とされております。筒井康隆氏の読んでおられるのは、「世界の名著 74 ハイデガー (中公バックス)」収録の原佑氏と渡邊二郎氏が訳されたものと、桑木務氏の訳された古い岩波文庫版(上、中、下)でして、岩波版は読み難いなどと文句をつけておられますが、大澤氏による補遺の注3で、現在の岩波文庫版は熊野純彦氏訳で、こちらはずっと読みやすいとされています。
世界の名著は、もう絶版となっておりますが、中公クラシックスから出ております3巻本(1、2、3)が同じ訳者で出ております。
その他、講談社板、光文社板、作品社版、ちくま学芸文庫版等も出ております。
ハイデガーは、フッサールの一番弟子と目された方で、ブリタニカ草稿を共著する計画もあったのですが、互いに別の道を歩むこととなってしまいました。
まあ、ユダヤ人のフッサールに対して、ナチスの元で大いに出世したハイデガーですから、同じ道を歩む道理もありません。
とはいえ、ハイデガーはアリストテレスを中心とするギリシャ哲学に造詣が深く、デカルトやカントの思想もかなり奥深いところまで押さえておられました。当然のことながら、フッサールの現象学に関しては、フッサール師匠を除けば、誰よりも詳しかったはずです。
このような方が、ギリシャ哲学やヨーロッパの哲学についてうんちくを傾けて書かれた書物を読むことは、豊かな時間が流れていることを実感できる、大変に幸福なひと時を過ごせるはずです。
まあ、忙しい人には難しいことなのですが。
しかしながら、この書物は、未完に終わった書物であり、ハイデガーが当初予定した内容は書かれていない。つまりは、本来の目的は果たされていない書物なのですね。
だから、書物を読むこと自体は、優雅な時間を過ごすことができるし、ヨーロッパ思想の根底部分の知識を得ることができるという意味で、意義深いものはあるのですが、だからどうしたというような、不完全燃焼感が残ってしまう可能性もあります。
そこで、以下では、木田元氏の「ハイデガー『存在と時間』の構築」を参照しながら、この未完部分について考察してみたいと思います。
「存在と時間」の未完部分
木田元氏の書物全体については、以前のブログ「哲学ミステリー(?)木田元の「ハイデガー『存在と時間』の構築」を読む」をご参照いただくこととして、ここでは、「存在と時間」の未完部分にのみフォーカスして議論することといたします。
同書は、149ページ以降でハイデガーの1929年の講義「現象学の根本問題」を扱っています。
この講義は、「存在と時間」の書き直しを狙って、その構成を前後逆にした形でなされたもので、その第一部が「存在と時間」の未完部分に相当すると、木田元氏は考えておられます。その内容は以下の通りです。
- 第一章:カントのテーゼ「存在はレアールな述語ではない」
- 第二章:アリストテレスにまで遡る中世存在論のテーゼ「存在者の存在には本質存在(エッセンティア)と事実存在(エクシステンティア)が属する」
- 第三章:近代存在論のテーゼ「存在の基本様態は自然の存在(延長するもの)と精神の存在(思考するもの)である」
- 第四章:論理学のテーゼ「すべての存在者は、それらのそのつどの存在様態にはかかわりなしに<デアル>によって語りかけられ論議される」。繋辞(けいじ:コプラ)としての存在
第一章は、人はもの自体を知りえないとするカントの主張の帰結でしょう。ここで「レアール」とは物自体に関わるという概念であるとして、以下のように、カントの実在概念に関する旧来の誤解を訂正しています。
ハイデガーはここで、この<real(レアール)><Realität(レアリテート)>を<実在的><実在性>と訳すのは間違いだという。もともと<real(レアール)>という形容詞は<物>を意味するラテン語の<res(レース)>に由来し、<事物の事象内容に属する><事物の事象内容に関わる>といった意味である。少なくともカントの時代まではそういう意味でしか使われなかったということを、ハイデガーはスコラの哲学者やデカルトの用例を挙げて論証してみせる。これだけでも驚くべき発見である。これだけ読み継がれ研究されつくしたカントの『純粋理性批判』の、それももっとも核心的な部分について、長いあいだこんな大きな誤解のあったこと(むろん日本だけではない)を指摘し、訂正してみせたのであるから。
第二章の、アリストテレスに遡る本質存在と事実存在の問題ですが、以前のブログではこれをbe動詞の多義性による混乱ではなかろうかと考えたのですが、be動詞が多義性を持つその理由についても考えておかなくてはいけません。
つまり、西欧の言語には存在動詞(英語で言えばbe動詞)があり、これがものの存在を表すほか、形容詞を伴って色などの属性を表したり、名詞を伴ってカテゴリーや本質や意味をあらわしたりします。存在を表す場合に「事実存在」、本質を表す場合に「本質存在」となるわけです。
問題は、本質や属性を表す際にも存在動詞が用いられるのはなぜか、という点なのですが、たしかにそうであることを強調する場合に、ものとしての存在と結び付けて語られたのではないか、と私は思うのですね。
つまり、ものが存在するわけではないけれど、かくかくしかじかという事実がそこに存在する、というわけです。
犯罪捜査でも「物的証拠」は事実を証明する強い要因となります。ものの存在を示すことは、真理であることを示す、もっとも簡単な手段なのですね。
とはいえ、存在するか否かという事実と、いかなる属性であり、あるいは何が本質であるかという事実は異なる概念であり、これらに同じ動詞を用いる際には、意味を使い分けなければいけないことは、当然のことです。
これを同じ「存在」という概念でくくってしまったことが、その後さまざまな混乱を招く原因となった、ということでしょう。
(2024.1.9追記)「存在」という概念を「ものの存在」以外に、「属性」なり「本質」を指し示す意味で使用するという問題は、じつは、アリストテレスも指摘しております。この事情を以前のブログから引用いたしますと、次のようになります。
白い、健康的である、などの形容詞と実体の存在とを区別しなければならない旨の主張が繰り返しなされるのですが、これはおそらく英語の be 動詞に相当するものを、存在を示す用法と、属性を示す用法とに区別して扱わなければならない、という主張であると思われ、これが言語上も区別されている日本人にとりましては、なにを言いたいのか、よくわからないというのが実感です。(と、いうよりも、余計な心配である、といったほうが正確かもしれませんね。)
同じ用語(英語で言えばbe動詞)が、ものの存在と、属性なり本質なりを示す、という二つの異なる意味を持つのは、それが重要で頻繁に使われる用語であるだけに、混乱の元になります。これに対して哲学者が注意を喚起し、異なる用語を用いることはそれなりの意味があるでしょうが、この混乱がない日本人から見ますと、何を言いたいのか、理解に苦しむかもしれないところではあります。(追記ここまで)
第三章は、デカルトが主張している存在の様態、つまり、延長としての存在と、属性としての存在を意味するものと思われます。
ここで、延長としての存在は、不可侵性、つまりものが置かれた空間に他のものが入っていけないという意味での実在であり、属性としての存在は、色や温度のような、人間精神がそれを感じ取ることで存在しているといえるものを意味します。
第四章は、ヴィトゲンシュタインの言う世界(世界は成立している事柄の総体である)とも同じ概念でしょう。
木田氏によれば、これらの概念に基づいて「存在と時間」の下巻を発表することは、当時の哲学界に強い衝撃を与え、下手をするとハイデガー自身の立場を危うくする、だから、ハイデガーはこれらの発表を控えたのではないか、と推測されています。
ユダヤ人である師匠フッサールを省みずにナチスに迎合するハイデガーでしたが、哲学研究に関しても生活優先で考えたということでしょうか。
ハイデガーの生きた時代が厳しい時代であったことは否定できないのですが、もう少しやりようがあったのではないか、とも思うのですね。
「存在と時間」第二部の概要
さて、ここまでくれば、ついに書かれることはなかった「存在と時間」の第二部がどのような内容であったか、おおよそのところは想像がつくというものです。ここではこれを、私なりに再現してみたいと思います。
まず、第二部第一章では、カントの「人はモノ自体を知りえない」とのテーゼに立って、これまで実体でありすべての基礎となるべきと考えられていた外界の事物は、人が知りえないのであるから世界を構築する土台とはなりえない、とすることでしょう。
そして、外的な事物、もの自体に代えて、人の知りえた外界の事物、すなわち主体(現存在:ダーザイン)の精神内部に構成された外界のモデルを実体(サブジェクト)とし、人が外界とみなしているのは、想像上の外界というスクリーンに投射(オブジェクト)された精神内部の外界のモデルの姿である、とすることでしょう。
これはちょうど液晶プロジェクタのようなもので、スクリーン上に投射されるイメージを人は見ているのですが、実際のイメージはプロジェクタ内部の液晶上に作られている。
それと同じように、精神の内部のイメージを眼前にあると想定されたスクリーン(想定された「外界」)に投射して、人は眼前に外界の姿を見ている、ということでしょう。もちろんこの投射は、精神内部で行われていることではありますが。
人が世界をどのように認識しているかというメカニズムまで考えれば、カントの思想はきわめて合理的であり、ギリシャ時代に考えられていた、外界の事物を実体とする考え方には無理があるということがわかっていただけるのではないでしょうか。
つまり、人が眼前に見えているものは、そこにあるモノ自体であると考えているのですが、実は人に見えているものは、網膜に結ばれた外界の像を視神経が脳に伝達し、脳内で様々な処理が行われた結果が人の意識に伝達されている。
人が認識している見えたモノとは、人の脳内に形成されたイメージであり、主観の内部の存在なのですが、これを人の意識は、見えたモノが眼前にあるとみなし、外界の事物そのものと考えているのですね。
人が脳内にイメージした外界のありように基づいて行動すると、きちんと結果が得られる。これは驚くべきことであるように思われるかもしれませんが、そうであるから人は、あるいは動物も、生きてこられたのですね。
これと同様の方式は、自動制御の世界では珍しいものでもありません。
制御装置の内部に外界のモデルを持ち、このモデルに基づいて制御する一方で、様々なセンサから得られた情報や制御の結果に基づいて、常にモデルを修正するという技法が、今日のデジタル制御の世界では多く行われております。
まあ、これほど複雑なものでなくとも、外界の実在が直接制御装置に取り込まれるものなど例外的な存在といえるでしょう。
例えば温度センサーの出力に応じてヒーターのオンオフを行う制御装置にしたところで、制御装置が見ているものは電気信号なりデジタルデータなのであって、温度自体が装置装置に伝えられているわけではないのですね。
注解C++リファレンスマニュアルは、“ARM”の略称で知られるC++の言語仕様に関する古典的名著なのですが、同書は「オブジェクト」の定義を「メモリー領域のことである」としております。
コンピュータが扱うあらゆるものは、メモリー領域に置かれている。だからCPUが扱うことができるのですね。この事情は、人間の脳でも変わりません。(この2パラグラフは2019.2.21に追加しました。)
サブジェクトとオブジェクトの入れ替わりに関しては、このブログでも以前「Subject(主体)について」というエントリーで扱っております。こちらもご参照ください。
上のリンク先でも解説しましたが、第二巻第一章は、カント哲学の到達点を解説するものであって、それが世間一般のカント哲学理解に関する誤解を解くものであったとしても、ハイデガーの新たな着想が付け加わっているわけではありません。
人が認識しているものが外界そのものであるとする考え方に関しては、大森荘蔵氏が著書「時間と存在」の中で、「脳産教理批判」という形で批判され、「無脳論」を唱えておられます。これに関しては、本ブログでも取り上げましたが、以下の論理で批判されています。
1. 私たちが外界を見るとき、外界にある対象からの反射光線に始まり、網膜、、視神経、外側膝状体、視床、大脳皮質視覚野……と続いてゆく信号伝達の因果連鎖がある。この因果連鎖を「順路」の因果系列と呼ぶ。
2. 脳産教理が維持されるためには、外界から脳にいたる順路の因果系列とは逆向きの因果系列が成立していなければならない。というのも、脳産教理は、外界の知覚意識が脳を原因として生み出されると考えるからである。この「逆路」の因果系列とは、脳を原因とし、意識された外界の「見え姿」「視覚風景」の成立を結果とする。
3. しかし逆路の因果系列は、時空的な連続的接続がなく追跡不可能であり跳躍している。
4. したがって脳産教理は脳から視覚風景への因果跳躍を犯している。
5. ……原因から結果に至る順路逆路の因果系列の一部分に跳躍があるのなら、因果系列なしで結果とされる事態が成立することも可能である。
6. それゆえ、この因果系列の途中に挟まれる脳がたとえないとしても、外界を見ること、外界を見るという事態の成立は可能である。脳がなくても視覚意識はありえる。
自らの知覚したものが外界にあると主張するなら、知覚情報を持つ脳から外界への因果の連鎖が必要であるはずなのですね。でも、そうしたパスは存在しない。このことを大森氏はアイロニカルに「因果跳躍を許すなら脳も要らんじゃろ」と主張しております。
脳から外界の視覚風景に至る連続的接続が存在しないのは、我々が外界の視覚風景であるとみなしているものが、実は脳内に保持された外界のイメージであるからなのですね。脳が脳内のイメージを見ているのなら、外界への因果の経路は不要です。
これが、カントの主張でもあり、だから、サブジェクトとオブジェクトがカントの段階で入れ替わることになるわけです。
第二部第二章では、本質存在と事実存在が問題となるのですが、本質存在に「存在」という概念を当てはめるのは、「真実」であると主張したいがために存在動詞を用いているに過ぎない、とハイデガーは主張するのではないでしょうか。(上記2024.1.9追記を参照。この部分は、真実性の主張というよりは、存在動詞が属性や本質を示すためにも使われていることに起因する混乱を避けるためだと主張することが、よりありそうなことです。)
そして、「真実」を存在によって裏付けるのではなく、フッサールが主張する「相互主観」の上に再定義された「客観」を「真実」とするのが自然な流れです。
そもそも、眼前の事物の存在は、存在すること自体の真実性を明瞭に示しているのですが、その本質が何であるかは眼前の事物の存在によって裏付けることはできません。
言説の真実性は、多くの人々が同じように考えること、時が流れても変わることなくそう考えることによってのみ裏付けられるはずです。
フッサールほど明瞭になされているのではないのですが、実は、カントも普遍妥当性の上に客観・真実を見ております。他者も同じように考えるという普遍妥当性を真実の要件とする考え方は、フッサール以前からさほど珍しくはない考え方だったのですね。
フッサールによる客観の再定義に関しては、このブログの以前のエントリー「デカルト的省察におけるフッサールの客観再定義」をご参照ください。
第二部第三章では、「属性」が扱われ、これも存在動詞で表現されるのですが、「本質」同様にこれも存在とは無縁であると結論付けるのではないかと思われます。
そして、カントの思想を受け入れて、すべての「真実」は人間精神内部に再構成されるものであり、これが他者とのコミュニケーションにより「相互主観性上の客観」という意味での「真実」になる、とするのではないかと思います。
第二部第四章では、「真実」とは「論理上の真実」であるというテーゼが語られるのでしょう。これは、「相互主観上の客観」は、言語を用いたコミュニケーションによって形成され、これには言語化・論理化が必要になるという事情によります。
実は、カントは人間知性の二つの要素である「理性」と「悟性」を並べて、論理的言語的知性である「理性」を批判し、より反射的な思考を担う「悟性」を重視しているのですが、ナチズムというイデオロギー(イデア+ロゴス)に従うハイデガーとしては「理性」を重視せざるを得ない。
論理上の真実の重視は、ここまで多くを頼ってきたカントの思想から一歩踏み出すものであり、まさに現象学がなしえた進歩であって、ハイデガーの真骨頂ということになるのではないかと思います。
「存在と時間」という、ハイデガーの書物のタイトルにある「時間」に注目しますと、カントは、悟性が時間に束縛されているのに対し、理性は時間を超越することができるとしております。
悟性は、瞬間的・反射的な思考様式であるため、瞬時瞬時に思考・判断がなされるのに対し、理性は過去の事物に思いを巡らし未来について考えることもできる。永続性を重んじるなら、理性に一日の長があるわけです。
理性は人の知性の一要素なのですが、それは、言語に礎を置いていることからも明らかなように、人が社会・民族という人間の集団の中で生きることで獲得されたものです。
そして、相互主観上の客観とは、まさに社会・民族の持つ知性であるわけで、それが永続性を持つと結論付けることは、ナチズムにとっても都合の良い論理であったのではないかと思います。
「存在と時間」が未完に終わった理由
さて、「存在と時間」の第二部は、ハイデガーの1929年の講義「現象学の根本問題」からおよそ推定できますし、それなりに有意義な書物となったのではないかと思われるのですが、ハイデガーにとってはこれは自らにとって危険な書物になると考えたのでしょう。
何が問題かといいますと、そもそもカントの段階で、人は神を知りえないとしていたのですが、カント哲学はほとんどの人に理解されていない一方、ハイデガーがキリスト教を否定する思想の持ち主であることを多くの人に知られることは、少々まずいと考えてもおかしくはない。
実はデカルトの段階で、存在には「広がり」と「属性」の二様態があり、神は広がりとして存在するのではなく属性として存在するとしておりました。
カントの場合、人は神を知りえないというところで止まっているのですが、ハイデガーが属性としての存在を否定してしまいますと、「神は存在しない」という結論が導き出されてしまいます。
この結論は、キリスト教が常識となっております社会においては、危険な思想と思われても致し方ありません。
実は、ナチズムとキリスト教の間には、相当にねじくれた事情があり、この問題は一つ間違えると身の破滅を招きかねませんでした。すでに名声を獲得したハイデガーにとりまして、何もここで危険を冒す理由はない、そう判断することは、まことに妥当であるように思われます。
同様の問題は、アインシュタインと量子力学の間でも起こっていたのではないか、という気が私はしておりまして、量子力学を受け入れるということは神の存在を否定することになる、ということをアインシュタインは理解していたのではないか、と思うのですね。
これは、本ブログでも以前ご指摘しましたように、量子力学はカント哲学に従えば不思議でもないのですが、神を知りえないとするカント哲学を受け入れることは、検出不可能であることをもってエーテルの存在を否定したアインシュタインには、受け入れられない。彼にとって、信仰と量子力学(=カント哲学)の共存はあり得なかった、ということではないか、と私には思われるわけです。
似たような事情が、ハイデガーの「存在と時間」でも起こってしまった、というのが、この書が未完に終わった、私の考えている理由です。
まったく頭の良い人というのは、不自由なものです。
木田元氏の「ハイデガー『存在と時間』の構築」については、こちらで読み直しております。