哲学少女夕映(ゆえ)の名前の由来ではないかと、私が密かに推測しておりますデカルトの言葉、我思うゆえに我あり、は、現在の哲学では大事な概念です。名付け親は哲学者のおじ様でしょうね。
で、この思う我、ですけど、全てを疑っても、疑う自分の存在を否定することはできない、というきわめて論理的な疑う主体としての我、でして、具体的には自らの意識、ということになります。
意識というのは、精神的な働きの総称で、特に、認識したり考えたりする精神的な働きでして、人は誰でも持っているもの。で、これ、ハイパーテキスト、ウエブで表示される奴と似てます。
ぼやっとしているときも、人は意識を失っているわけではなく、その人の意識の内には、周りの景色や音がありまして、一応、それぞれの要素に分割されて認識されているのですね。だから、先生がしゃべっている、とか、廊下を通る誰かの声がしている、ということは、かなりぼやっとしていても当人は認識しているわけです。
意識の世界に見えているさまざまなものは、それに注目することで、その属性にジャンプします。たとえば、ここは試験に出ますから、などという声をきっかけに、意識が先生の言葉に集中する。そうすると、ちょうど、リンクをクリックしたようなもので、ウインドウが開き、先生の言葉がそこに記録されるわけです。
ぼやっとしているときは、およそ回りの光景が見えているはずで、これが意識のホームページ。で、何かに注目したり、考え始めたりすると、ちょうど画面を切り替えるように意識が切り替わり、別の事柄が意識の中心を占めるようになります。で、その世界にも、さまざまなリンクがあり、別の世界に意識が移る、ということが行われているわけですね。
意識の中の一つが自我。自分自身を意識する、ということです。これに似ているのが他我、他人の意識を意識する、という奴で、あいつは私のことをどう考えているのだろう、なんてことや、この格好、少々みっともないかもしれない、なんて考えるのが他我の意識の一つ。特定の他人の意識の場合もあれば、一般的な他人の目を気にする、なんて場合もあるのですね。
意識、至極日常的なものもあれば、日常生活からかけ離れたことを意識する場合もあります。本を読んだり、ゲームをしたりしているときの意識は、その世界に埋没しているはずですね。難しい問題を考えたりしているときも同様。で、これらは、よく考えてみると、他人の意識した世界なのですが、意識している自分の世界からは、他人の存在など消えうせています。
まあ、判りやすくいえば、ネギま!を読んでいるときの意識は、ネギま!の世界にあるわけで、この世界、赤松健氏の創作した世界なのでしょうが、たいていの場合、作者の存在は意識の中から抜け落ちているのですね。意識中心で考えるなら、この世界、他我というよりはネギま!の世界。我々が意識するこの世界、無数の世界で満ちている、と考えたほうがしっくりします。
さて、これらの無数の世界、たいていは、相互に協調して、全体では矛盾がなくつながっています。つまり、水曜日にコンビニに行けばマガジンがあり、それを開くとネギま!の世界がある、というわけで、日常生活の世界からネギま!の世界まで、何の矛盾もないわけです。
学問の世界も、数学の世界があり、その成果を物理学が使っている、物理学の知見を土台に化学があり、それを土台にして生理学、分子生物学などがあって、さらにその上に医学がある。それぞれの学問の世界は、独立した研究対象なのですが、相互に役割を分担し、矛盾なくつながっているわけです。こういう世界なら非常に住みやすいわけです。
ところが、この世の中、必ずしもそうなっていないことも多く、学校の常識が会社では通用しない、家庭内の世界と外の世界が矛盾している、なんてことが多いのですね。まあ、古くは、田舎の常識が都会で通用しない、田舎モノと馬鹿にされてしまう、なんて問題もありました。
こういう問題は、結局のところ、郷に入れば郷に従え、新しい環境に自らを合わせるしかないのですが、こだわりがあると、それが難しいのが実情。こだわりを捨てることが成功の鍵、じゃないでしょうかね。
一つの救いは、ヒトという種、根底のところでは、みんな同じだ、ということですね。だから、たいていの人のホームページ、みんな似通っている、というわけです。郷に従うこと、実は、さほど難しいわけではありません。とはいうもの、それができりゃあ苦労しない、というのもまた事実、なのかも知れませんねえ、、、まあ、そういう方には、がんばって、というしかありません。