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ウォッチ!イケハヤ(5)日経著作権問題から

イケハヤ師、今度は日経新聞から著作権侵害とのクレームを付けられた模様です。このところ諸般の事情により忙しい日々が続いているのですが、著作権がらみとなりますと見逃せません。新しいエントリーを起こして、ウォッチを続けましょう。

なお、このエントリーは、これまでと同様、随時書き足す形で進めてまいります。そういうわけですので、まだスカスカですけど公開します。

これまでの経緯

イケハヤ師をウォッチするエントリーは、今回で5本目です。過去記事とこれへのリンクは以下の通りです。

(1) 正田圭さんをめぐる事態の急変:1/9~

(2) イケハヤ師と脱社畜サロンをめぐる問題:2/6~

(3) うおっち!イケハヤ師とその界隈:4/2~

(4) ウォッチ!イケハヤ(4)除草剤以後:7/16~

イケハヤ師とその界隈

イケハヤ師のブログ
イケハヤ師のツイッター

10/31のツイート:無事復活と

完全復活との報告:経緯はノートの有料部分で販売と。お値段は480円です。

パラベル@何でも改善屋氏のツイート:イケハヤランドや新スタジオの整備を手伝っています

新物件:今度はえらくきれいな物件を手に入れております。イケハヤ師の新スタジオでしょうか?

アンチ関連情報

イケハヤ師をめぐっては、多くの方がツイッターやブログで評論しております。

再開された「イケダハヤト界隈Wiki」
えらいてんちょう氏のツイート:イケハヤ師の天敵です
はらですぎ氏の軽いブログメインのブログ、そしてツイート

モモンガ創世記

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5チャンネル

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MechaAG氏

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以下、MechaAG氏への反論ですが、新しいものを上にしている関係で、順序が逆になっております。タイトルと番号を振りましたので、必要に応じて下から上にたどられるよう、お願いします。


MechaAG氏への反論、その15:#513

この表題、過去とのつながりで「反論」としましたし、内容は確かにMechaAG氏の主張とは異なる形とはなっているのですが、MechaAG氏をdisったり否定したりする意図はないことをあらかじめお断りしておきます。

ではなぜ書くかということですが、目の前に面白そうなネタがあれば書いておきたい、この思いは万人共通のものであると思います。そして想定している読者はMechaAG氏だけではない、知識を愛する普通の人である、ということもお断りしておきます。

教育問題

今回のMechaAG氏との論争の元々は、私がBLOGOSに書いたコメントがきっかけとなっております。

ここで私の言いたかったことは、トーマス・クーンの「科学革命の構造」の以下を引いて、韓国でノーベル賞が出にくい理由を教科書に忠実で疑問を挟まないためであろうとした点だったのですね。

自然科学では、学生は主に教科書に頼り、大学院の三年目になってはじめて自分自身の研究を始める。科学の授業では、たいてい、大学院の学生にさえも、学生向けに特に書かれたものしか読むことを勧めない。研究論文や単行本を補助的に読ませる科目は、きわめて程度の高いものに限られ、手近な教科書がカバーし切れない材料を扱うときに限っている。科学者の教育の最後の段階まで、独創的な科学文献の代わりに教科書が系統的に与えられている。この教育方法はパラダイムがあるから可能なのである。そのパラダイムへの信頼を教えこまれ、それを変えようと志す科学者はほとんどいない。

まあ、このBLOGOSコメントが歴史問題にかこつけているのはご愛敬で、本当のところは年長者を敬う儒教的思想に問題があるような気も致しますが、いずれにせよ、教科書を疑うということが創造的な知的活動には必要である、というのがここで言いたいことであったわけです。

ここでは、クーンの主張のすべてを認めているわけでも何でもありません。ここでの議論は、教科書に対する付き合い方であり、これはとりもなおさず、学校教育の場における質問の是非をめぐる問題にも発展するわけです。

ここで、MechaAG氏は、教科書に書かれていることぐらい生徒は疑問の余地なく納得できるだろう、とお考えの様子なのですが、そう考えられることも、なんとなく理解できるような気がします。

つまり、MechaAG氏はソフトウエアの世界で生きてこられた方で、その世界のすべてを律するのは規格であり仕様書でありマニュアルなのであって、技術者はそのすべてに精通していなくてはいけない。

だからその世界で長年生きてこられた方には、書かれていることがすべてであり、それは普通の技術者にも理解できる形で書かれており、それをマスターすることが職業人として何より大切なことだと考える、これはなるほど理解できる話です。

でも、一般的な世界ではそうではない。理系の技術者が対処しなくてはいけない問題でもそういう場合があるのですね。たとえば材料を扱う場合、メカニズムがわかっていない場合も珍しくはありません。そういう時には理性の扱う理屈ではなく、直観とかひらめきに頼ることも必要になる。これがカントのいう悟性の働きであるわけです。

鈴木大拙氏のいう「禅」なり「日本的霊性」は、理性を超越した精神の働きを重視しており、「悟性」と近い概念を重視しているように私には読み取れるのですね。だからこれに「悟る」という文字を用いることにも違和感がないわけです。

また、日本に材料系のノーベル賞受賞者が多い理由も、ひょっとするとこのあたりにあるのかもしれません。研究費云々以前に、問題に対する姿勢なり考え方として、グローバルスタンダードを目指すだけでなく、日本的思考様式を振り返ってもよいのではないかと思います。

球殻から生じる万有引力について

この問題に関しては、上で書いております、教科書なり教師の説明に疑問を持つ例として挙げているのであって、教師に恨みがあるわけでもなければ、授業を妨害すべきといっているわけでもないし、自慢しているわけでもない(この点だけは完全に否定できないかも)のですね。

ここで取り上げた、球殻から生じる万有引力はそのすべての質量を中心に集めたものが生じる万有引力に等しいという定理は、万有引力の法則において重要な定理であるけれど、その証明は難しいという点は理解していただきたいところです。

説明が難しいから、「重力は重心に作用します」といった形で物理教師は簡単に説明するのですが、問題を個々の要素に分けて考える生徒はこれに疑問を持つ。

MechaAG氏は、こんな疑問の答えくらい、ほとんどの生徒が分かっていたとお考えの様子ですが、実はその時質問にやってきたもう一人の生徒は、学校でも評判の数学オタクだったのですね。なんと彼は、習ってもいない微積分まで理解していた。

数学に精通していた生徒が疑問に思うくらいですから、他の大多数の生徒が疑問とその解を理解していたとはとても思えないのですね。実際問題として、積分による証明にせよ、ニュートンによる積分を使わない証明にせよ、ちょっと読んでいただければ、それが相当に難解な議論であることがお判りいただけると思います。

まあ、定性的に、そういうこともあろうか、と思うくらいでしたら高校生レベルでもさほど難しくはないのですが。

次にこの問題の重要性ですが、これは特に、地表付近の物体に作用する地球の重力を計算する際に重要になります。つまり、引力は距離の二乗に反比例して働くのですが、リンゴと地球の間の距離は、地表までなら数メートルですけど、地球の裏側までは1万3千キロと、何桁も異なってしまうのですね。

だからニュートンもプリンシピアの中にこの証明を書く、これは必須の項目であったわけです。この点につきましては、学校教育の場でも、何らかの形で触れておくのが良いと思った次第です。まあ、今ではきちんとやられているのかもしれませんけど。

イケハヤ師について

こちらに関しては、評価は省略しますけど、ジョブズが高く評価するクレージーな奴であることだけは確かです。

これを否定するのも肯定するのも勝手ですけど「無視しちゃいけない」、とのジョブズの言葉ももっともで、だからウォッチしているのですね。

まあ、私は平凡の原理に従って、彼はそれほど変な奴でもなかろう、と推論しているのですが、この議論はやめにしておきましょう。


MechaAG氏への反論、その14:#509

まだまだMechaAG氏の反論が続いておりますが、興味深い話題もありますので、この新しい部分につきまして、簡単に述べておきます。

悟性と概念化

カテゴライズというのは、共通の性質を括りだす作業だよね。たとえば「鳥」というカテゴリーは「飛ぶ」という性質で括られたものだ。もともとはね。「飛ぶ」という性質を持ってるものを人間は「鳥」と分類したわけだ。ただ中には飛べない鳥とかいるから、その分類方法を適時変えてきたけれど、基本は共通の性質を括りだす作業。

あなたの表現だと「飛ぶ」という性質は悟性でないと決められない、ということになるのかな?「飛ぶ」というのは、客観的事実なんじゃないの?科学においては。

以前述べたように科学は「観測」を重視する。観測というのは、突き詰めれば人間の五感だよね。人間の五感で検知できないものも、計測器を使って最終的に人間の五感に変換する。放射線は人間の五感では直接感知できないから、計測器が示す数値を人間が「目」で読み取る。それが「客観(観測)」。

客観的事実の中から選んでるわけですよ。「食べる」「鳴く」「飛ぶ」といういくつかの観測結果(客観的事実)の中から、「飛ぶ」という性質でカテゴライズしたのが「鳥」。

悟性とか必要ないと思うけど?

「飛ぶ」ということがどういうことであるのかは、さまざまな飛ぶものを見た経験から「飛ぶ」という概念を悟性が作り出し、これに「飛ぶ」という言葉が結びつくのは人の社会性によるわけですね。

このあたりのメカニズムは、以前読みました養老孟司氏の「バカのものさし(扶桑社文庫)」では、次のように解説されております。

たとえば、比例する二つの三角形。一つは遠くにあって、一つが近くにあるとするでしょ。それをしょっちゅう、いろんなところから見ていると、最終的に脳ミソが何をおぼえこむかというと、比例関係なんです。そんなふうに、脳はあっちからもこっちからも、いろんな距離から見ているあいだに、変わらないこと、変わらない性質だけを、覚えていくんです。

で、算数で比例を習うと、ふつうはキミたち、外側に「比例」という規則があって、その、外側にある規則を自分が学んでいるんだ、なんて思っているでしょう。

ぼくが言いたいのは、キミの頭の中に、くり返し学んだすえにすでにわかっている「比例関係」がじつは最初からあるんだっていうことです。むずかしく言うと、外部的に外側から説明してもらうと、頭の中にあるから、わかる、ということ。それが脳の働きというものなんです。ふつう考えるのと、ちょうど逆でしょ。

それと同じことで、きみたちは学校で、外からいろいろ教えられるもんだと思っているでしょう? でも、そうじゃない。わかるというのは、もともと自分の中にわかるだけのものが、ループのくり返しによりでき上っていて、それを外から説明されるから、わかるんだ。

この自分の頭の中に答えを作り出す能力が「悟性」ということになります。これは、比例関係のような法則や「鳥」だとか「飛ぶ」といった概念の形成を含むカテゴライズの機能もあるのですね。(カテゴリーに関しては多くの哲学者が論じてますが、ここはカントを基準に考えてください。)

大事なことは、多くの概念は定義することができるのですが、定義には他の概念が必要になり、その最初の定義においては定義されない概念を用いる必要があるのですね。

たとえば、円を点だとか、距離だとか、一定だとかといった概念を用いて定義することは可能なのですが、点とは何か、距離とは何か、一定とは何かといった概念の定義が必要になり、これらを定義したところでそれに用いる概念の定義が次に必要になる。

人間が円を理解するのは、養老氏が述べたように、予め人の頭の中に丸いものという概念があり、これを学校などで「丸いものを理想化したものが円である」と教わって、その円の性質として中心からの距離が一定であると教わるわけです。

人間が世界を理解するのは、ユークリッドの原論を読むごとく定義を積み重ねて行う理性的な働きではなく、経験の積み重ねを通したカテゴライズによって行われている、これが悟性の働きである、ということなのですね。

もちろん、学問のレベルになりますと定義の積み重ねで議論されるのでしょうが、これはどちらかといえば専門家がおこなう作業であって、普通の人は、直観(悟性)で得た概念とこれに結びついた言葉を用いて思考したり、議論したりしている、というわけです。

その他:苦情

重力が作用する点に関しては、「授業が終わった時に、私ともう一人の生徒が教師の元に質問に行った」と最初から書いているのですけどね。授業の邪魔にならないよう、ちゃんと配慮しているのですよ。こういうところまできちんと読み取った上で、主張を述べていただきたい。

まあ、ブログというものが対個人のメディアではないことは理解しておりますよ。だから、対個人のメッセージはここに書きたくない。

でも、あまりにも事実と異なる主張を繰り返しされますと、これを読まれる他の読者も誤解してしまう。これはちょっとまずいのですね。フェイクニュースといいますか。

お気を付けください。


MechaAG氏への反論、その13:#508

お、なんか更新されてる。

まあ、楽しんでいただけるのでしたらもう少しお付き合いしますが、MechaAG氏にとって愉快な結果になるかどうか、少々疑問である点が心苦しいところです。

理性と悟性:理性の限界ということ

でも、論理は概念に対して働くものであり、一般には言語化された対象を扱います。知覚された最初の情報は様々なインパルスであり、これをカテゴライズして概念を得る能力をカントは「悟性」と呼んでいるのですね。

「カテゴライズして概念を得る」のに理性は使わないの?たとえば人間を「大人と子供」に分類するか、「男と女」に分類するか、どういう分類が目的に応じて適切か?とか考えるのにロジックは使わないの?

カテゴライズも、最終的には概念で語られ、論理化されるわけですから理性も使われますよ。

問題は、概念を、個々の特徴により分類する形で定義づけることもできるのですが、その場合は個々の特徴に含まれる概念をどこからか持ってこなくてはいけない。これも同様な理性による定義づけでやろうとしても、一番おおもとの出発点は悟性で決めるしかないのですね。

わかりやすく言えば、リンゴというものは、普通の人は、見れば直感的にこれはリンゴだと理解するのですが、この直感を停止して、理性でリンゴであると判断することもできます。

これは、素人流に言えば、たとえば、赤くて丸くて、噛めば甘酸っぱい味がして、歯槽膿漏を患っていたら歯ぐきから血が出ることもある、ちょっとした硬さを有する物体というような形で定義することになるのでしょうが、その時使う、「赤い」とか「丸い」という概念をどこかから持ってこなくてはいけないのですね。

これにはおそらく、丸い形を見せて、これを「丸い」というのだと教育することになるのでしょうが、それは人が直感的に得る丸いという概念と、丸いという言葉を結び付けているわけで、最初にもつ丸いという概念は直観的に得るしかないのですね。

「理性の限界」(「知性の限界」とも)は、近年の人間の理性が到達した一つの水準であり、理性だけですべてをかたずけることはできない、というのが今日の常識になっております。

悟性は、理屈ではない、ひらめき的な能力であり、新しいものを生み出すためには欠かせない能力です。

あなたの表現に従うなら「カテゴライズ」を「閃き」で行うのが文系、ロジックで行うのが理系なのですよ。

「悟性」は、カントの用語で英語で言えば“understanding”です。純粋理性批判の最近の訳ではこれを「知性」と訳した本が出ているのですが、「知性」では「悟性」と「理性」の双方を含むと誤解される危険があり、ここでは岩波文庫版に従い、「悟性」で通したいと思います。

悟性と理性の違いを以下に列挙してみましょう。

  • 意識的に行うのが理性、完全に、あるいは半ば無意識的に行うのが悟性
  • 過去や未来を考えることができるのが理性、現在に束縛されているのが悟性
  • 二つ以上のことを同時に行うのが難しいのが理性、これが簡単にできるのが悟性

人工知能に関連付ければ、ディープラーニングでニューラルネットワークとして知識を獲得するのが悟性に近く、prologのような知識ベースで推論するのが理性に近いといえます。こう見ますと、今日のAIが悟性に比重をかけすぎているようにも思われ、今後のAI研究が何らかの壁にあたる可能性もありそうです。

人間の大脳では、悟性に相当する部分は専門のニューラルネットワークが形成されている様子で、視覚情報の処理や言語、空間認識、人物の判定などに、それぞれ専門の領域が使われている様子です。

一方、理性の働きに相当する意識的な思考がなされているときは、大脳の広い領域が同時に活性化しているとのこと。もしかすると、シーケンシャル処理を行う、アキュムレータやレジスタに相当するニューラルネットワークが大脳のいずれかの箇所にあって大脳全体にアクセスしているのかもしれません。

理性は論理的な処理を行う一方、悟性は論理的な処理も行うし、パターン認識のような、論理的というよりは、多変量解析的な処理も行います。

そして、理性が言語的な概念情報として意識にフィードバックするのに対し、悟性は面白いとか変だといった、感覚的な情報として意識にフィードバックされる。

悟性の働きの結果、熟練したスポーツプレーヤは意識することなく正しい動作を行うことができます。これは、自転車やスキー、スケート、そして水泳など、多少のトレーニングが必要なスポーツに際して、普通の人でも行っていることです。カント的には、これは悟性から外れるかもしれませんが、私にはほとんど同じものであるように思われます。

言葉も、外国語を習い始めた時は意識して意味を探る必要があるのですが、自国語や外国語であっても非常に習熟すれば、意識することなく耳に入った言葉の意味を解し、伝えたい内容の言葉を組み立てることができるのですね。

実は、研究者も無意識の思考を大いにトレーニングしなくてはいけないし、そこから返される感覚的な情報をつかみ取る力を高めておかなくてはいけない。なんとなれば、無意識の思考は意識せずとも常に働き、同時並行処理がおこなわれる極めて効率的な思考であるからです。

以前のエントリーでご紹介しました、石井淳蔵氏の言う「ビジネス・インサイト」や、江崎玲於奈氏の言う「テイストの良い研究者」とは、悟性を磨いた無意識の思考に優れた人たちだと、私は理解しております。

このあたりはこちらでご紹介しましたように、鈴木大拙師のいう「日本的霊性」に相通ずるところがあります。

意外と日本人は悟性を磨くトレーニングを知らないうちにしているのかもしれない。これが、我が国が研究開発でかなり良い成績を収めている一つの要因かもしれない、もしそうならこの部分を大事にしておかなくてはいけない、そんな気もする次第です。

お話があらぬ方向に発展してしまいましたが、、、

地球重力のなぞ

たとえばさ、あなたは高校教師に質問してるときに、自分で「重力とはこういうものかな」と気づいたわけでしょ?

物理の教師は返答に窮しておりましたが、私とその生徒は、お互いにピンときた。

でもさ、教師に質問に行かなくても、教科書を読んでるだけで「きっとこういうことなんだろうな」と気づく同級生がいないと思ったのはなぜなの?理系はそんなのいちいち教師に質問に行かなくても、自分の頭で考えて、納得するわけですよ。

MechaAG氏の誤解を正すために、いくつか新たな情報も書いておきましょう。

まず第一に、当時私の通っていた高校では、疑問に思ったことは何でも質問するように、という教育が徹底されていたのですね。これは、MechaAG氏の常識とは相当に異なるように見受けられます。

実は、MechaAG氏の大好きなクーンがそういうことを書いていて、学生は教科書を疑ったりしてはいけないとするのが昔風の教育なのですね。

でも、クーンの教えに反して、創造性ということが当時も言われていたようで(日教組あたりがおかしな思想を流布したのかもしれませんけど)、生徒が教師に疑問をぶつけたり、生徒同士で論争をすることが推奨されていたのですね。

だから、私ともう一人の生徒が物理教師に疑問をぶつけたのは、この学校の教育方針にかなう、教師としてもウエルカムのお話であるわけです。

で、私の疑問はもっともなもので、万有引力は距離の二乗に反比例して働く。これが、距離に対して線形に変化するのであれば(台形の面積を求める計算と同様に)中間点にすべての質量を集めて計算すればよいのですが、二乗に反比例する場合、近距離の物体の効果が大きく出るため、平均してはいけないはずなのですね。

もう一人の生徒の疑問ももっともなもので、地球はリンゴの下だけでなく、前後左右にも広がっている。その部分の質量が発生する万有引力は、大部分がキャンセルしてしまうはずなのですね。

で、物理教師が返答に窮するのももっともで、この説明は相当に難しい。積分を使うにしても三角関数を含む式の-3/2乗の積分が必要になり、部分積分などのテクニックを駆使して計算しなくてはいけない。これを普通の高校生に説明するのは至難の業なのですね。

でも、二人の生徒は納得したのも理由があって、一方の疑問では重力が大きく出なければいけないのに対して、他方の疑問では重力が小さく出なければいけない。これを合わせれば、教科書通りのことが起こっても何の不思議もない、というわけ。

もちろんその精密な説明は当時の高校生の水準では不可能なのですね。だからこれ、他の生徒たちが全部を理解していたはずもなく、単に教科書の記述をそのまま受け止めていただけだと思いますよ。それは、クーンの記述した、教育を受ける学生の正しい姿ではあります。

なぜかMechaAG氏がクーンの主張を強化しているのに対して、私はその反例を提示しているという、不思議な議論の流れになっております。

確かに教科書を疑うなという教育は昔の教育であり、今日の教育は、教書を疑え、教師を大いに困らせよ、という方向に変化しているようです。そういう意味では、クーンは昔の人なのですが、現にクーンは昔の人(「科学革命の構造」は1971年の出版)なのだから致し方ありません。

定性的、そして三段論法

この双方の疑問を合わせれば、中心に質量が集中したように作用することだってあり得るのですね。

これは論理思考(ロジック)なのですよ。

- - - -

それとも

でも、定性的には正しいこともあり得ることは理解でき、

定性的な思考が悟性で、定量的な思考(計算をする思考)がロジックだと思ってるんですかね?そりゃ計算はロジックだけど、ロジックは計算だけではないのですよ。

例えば三段論法ってロジックだよね。AならばBである。BならばCである。ゆえにAならばCである、と。これは論理思考なわけ。別に計算してないよね?でもあなたの分類だと、ロジックではなくて、別な何か、悟性や感性になるんですかね?よくわからないけど。

まああなたはなにからなにまで、おかしくて、どこから説明の手をつけていいか、気が遠くなりますな。文系でもあなたほど特殊な考え方をする人は珍しいんじゃ。

ロジックだとかそうじゃないとか決めつけているのはMechaAG氏であり、私は最初から最後まで論理的に話を展開しております。論理だけですべてを説明しきれないということも含めて論理的に説明しているつもりなのですが、、、

定量的な議論には積分の知識が必要だけど、当時のわれわれにその力はない。でも、最初の私の疑問であった、地球重力を過小評価しているのではないかという疑いは、もう一人の生徒の地球重力を過大評価しているのではないかという疑問と相殺される、とも「定性的」には言えるのですね。

ちなみに、三段論法の行使はロジックですけど、三段論法という論理的推論手法自体は、悟性によって与えるしかありません。直観的といいますか、天下り的といいますか、まあ、そういう世界なのですね。

その他何かありましたら追記しますが、とりあえずこの三点を指摘して公開いたします。


MechaAG氏への反論、その12:#506#507

このところMechaAG氏の文系disりが続いております。あまり繰り返しを書くつもりはないのですが、新たな情報を提示できる場合は、簡単にこれを書いておきたいと思います。

この下の方の「その5」で議論いたしましたように、理系能力と文系能力という二つの異なる能力が存在する場合、理系能力を評価する軸で文系能力を評価するとその大きさはゼロ、つまりバカに見える、これはあたり前の話です。

以前のこのブログでジョブズの言葉を紹介しました。その最初の部分は以下のものでした。

Here’s to the crazy ones. The misfits. The rebels. The troublemakers. The round pegs in the square holes. The ones who see things differently. They’re not fond of rules. And they have no respect for the status quo. You can quote them, disagree with them, glorify or vilify them.

クレージーな人たちに乾杯。はみ出し物、反逆者、厄介者、変わり者。物事が世間と違って見える人。ルールなどわずらわしいだけの人。現状など気にもしない人。彼らを引き合いに出すことは出来る。否定することも出来る。たたえることもけなすことも出来る。

この後の部分で彼はクレージーな人たちを大いに持ち上げるのですが、MechaAG氏にかかれば、これは全く否定すべき存在であるわけですね。まあ、ジョブズも、「たたえることもけなすことも出来る」と書いているわけで、それもまたアリなのですが。

で、以前のブログ「三つの知性と三種類の馬鹿」で論じた話なのですが、知性には三種類あるため、いずれかが欠けている人はそれを持つ人から見て馬鹿にみえる結果、馬鹿にも三種類あることになります。

この能力とは次の3種類であることは、何度かご紹介しております。

理性=研究者=LOGIC =論理力=ソクラテス的なるもの
悟性=芸術家= ART =発想力=ディオニュソス的なるもの
感性=勝負師=MARKET=表現力=アポロン的なるもの

このうち、理性が理系能力であることはほぼ間違いないでしょう。だから、論理力に欠ける人を理系の人が見れば、これは馬鹿にみえるわけですね。

でも、論理は概念に対して働くものであり、一般には言語化された対象を扱います。知覚された最初の情報は様々なインパルスであり、これをカテゴライズして概念を得る能力をカントは「悟性」と呼んでいるのですね。

悟性は、理屈ではない、ひらめき的な能力であり、新しいものを生み出すためには欠かせない能力です。この重要性は以前のブログ石井淳蔵氏の「ビジネス・インサイト」をご紹介した際に説明しております。

もう一つの悟性の働きとして、繰り返しトレーニングを積むことで、理性が処理していた分野を悟性が処理するようになります。スポーツでは「体が覚える」などとも言いますし、ネイティブの人間の言語理解が瞬間的反射的になされるのも悟性のなせる業なのですね。

悟性の弱い人は、目前で生じている現象の意味が分からない。一方で、理性がしっかりとしていれば、すでに言語化された問題を解く能力に優れ、試験問題を解く能力に優れるのですね。ジュールベルヌの海底二万里下巻はこちら)に登場します、魚類学者と漁師の関係みたいなものですね。

で、アップルの成功は、感性と悟性に優れるジョブズと、理性と悟性に優れるウォズニアックが組んだことであり、それぞれが相手の優れた部分を評価したからうまくいったということであるように私には思われます。

この時、自分にあって相手にない部分を取り上げて馬鹿にしていたら、アップルの成功はなかったはずですよ。まあ、共通項である悟性(クレージーさ)を何にもまして高く評価することが、成功の鍵であったということなのでしょうね。

と、いうわけで、これを純粋な理系の方にもわかりやすくいえば、三次元の世界で大きさを評価するためには、三つの方向で評価しなくてはいけない、ということです。これを一次元で評価することももちろん可能なのですが、それは一面的なものの見方なのですね。

まあ、「学者馬鹿」とか呼ばれる人たちが、そういう見方をしがちなのかもしれません。これはこれで悪くはないのですが、一般的な評価とはいいがたいと思いますよ。


MechaAG氏への反論、その11:#501

だんだん、同じ話の繰り返しになってまいりました。今回のご意見にみられる誤解と思われる部分にはコメントを付けておきますが、今後新しいポイントが示されなければ、このあたりで最後といたします。

なお、「AだからBである」とのMechaAG氏の主張に対してAを否定すると、「俺の言いたかったことはAではなくBである。そのくらい読み取れ」という反応が多々返ってくるのですが、Aに責任もてないなら「Aだから」などといわないでいただきたいものです。その部分で散々他人をdisっているのにね。

イケハヤ師に対する評価

これに関しては、お互いに確かなことも言えないわけで、議論しても平行線をたどるだけでしょう。私には、MechaAG氏やアンチの方々はイケハヤ師の炎上商法にのせられているだけであるように思えるのですが、本物(!?)である可能性を否定できるだけの材料もないのが実情ですから。

地球とリンゴ

これに関しては、最後に、私に対する誤解を解いておきたいと思います。以下、引用が多く見苦しい点もあるのですが、大部分、これまでに書いたことの繰り返しになりますので、お許しください。

地球とリンゴ:物理授業への疑問

「無知を知る」ということができない。自分が無知であることを知ってれば、専門家や業者に相談するわけですよ。自分の拙い知識だけで判断せずに。

ところがあなたもそうだけど、その時点の知識、例えば高校生の科学の知識で、物理の教師と張り合うことが何もおかしくないという感覚なんでしょ?

この部分、私の前エントリーでの記述は以下の通りです。少々長くなりますが、以下に再録しておきます。私の疑問は誤解であって物理教師が正しいことをきちんと述べていると記述していることにもご注意ください。

もちろん、この疑問が結果的に間違いであっても、疑問を持つこと自体は良いことであると考えてはおります。それに、私のしたことは質問しただけで、張り合ったり論争を挑んだわけでもないですよ。

ここで「こう考えればこうなって、話されたことと異なるが」という質問の仕方はしておりますが、それは、私の考えの問題点を指摘してくれ、という意味なんですね。以下の再録部で「教師の元に質問に行った」としている点にもご注目ください。

実は、ニュートンの万有引力の法則は、これを使うに先立って一つの大事な原理を覚えておく必要があります。それは、球殻に作用する重力は、質量が中心に集中しているように働く、ということなのですね。これは距離の二乗に反比例する力一般に言えることです。

注意すべき点は、あくまでこれは「球殻」に対してであり、その他の、たとえば棒状の物体などでは、重力は重心に作用するわけではありません。

実は、私が重力を最初に教わった時には、物理学の教師はこの話をせずに、重力は重心に作用するとして、重力定数と地球の質量と半径から地表における重力加速度の計算をして見せたのですが、授業が終わった時に、私ともう一人の生徒が教師の元に質問に行ったのですね。

私の疑問は、重力の作用する距離は地球の半径よりも小さいのではないか、ということで、そもそも二乗に反比例する力なら、地表に近い部分の影響が大きく表れるはずなのですね。だから、地表における重力加速度は、教師の示した値より大きいはずだと考えたのですね。

いっぽう、もう一人の質問に来た生徒は、逆のことを言う。地球は私の下にあるだけではなく、前後左右のちょっと下のあたりまで広がっている。そういたしますと、下の図のように、合成された下向きの重力は、計算された値よりもはるかに小さいはずだ、というのですね。

重力の合成

物理の教師は返答に窮しておりましたが、私とその生徒は、お互いにピンときた。この双方の疑問を合わせれば、中心に質量が集中したように作用することだってあり得るのですね。ただ、その計算は、微積分を教わっていない当時の生徒の数学知識では難しい。でも、定性的には正しいこともあり得ることは理解でき、教科書が正しい可能性があるなら、それは正しいとしておいて問題ないはずなのですね。

まあ、教科書をただ信じているだけだと、そういうことはわからない。元々、微積分を知らない段階の高校生に万有引力と重力の関係を教えるのが間違いであると思うのですが、教科書を覚えるだけなら何の問題もないのですね。

つまらないことを疑問に思うのは時間の無駄ではあります。でも、こうしたことをきちんとわかっているかわかっていないかは、実際には大きな差だと思うのですね。まあ、そう思う人と、そう思わない人がいるであろうことは理解しているのですが、、、

で、ニュートンは、といえば、このあたりはきちんとやっている。つまり、球殻に作用する距離の二乗に反比例する力は、すべてを中心に集めた時の力と同じである、ということをまず証明する。それを、微積分を使わずにやろうとするから、難解な話になります。

10/31追記:球殻外部の万有引力は中心に質量を集中させたように働く、という定理を積分できちんと計算しているページは、たとえばこのあたりがあります。ここでは、同じやり方で球殻の内部には引力が作用しないことも説明しているのですが、実はこちらの方は簡単に説明できます(ニュートンもプリンシピアに記述しています。)

これは、下図左のように球殻内の点Pを通る直線ABを考え、その周囲に点Pを頂点とする頂角の等しい円錐を考えるとき、円錐が球殻を切り取る質量はPからの距離の二乗に比例しますので、AとBに作用する距離の二乗に反比例する力は向きが逆の同じ大きさとなり、キャンセルされます。

円錐の底面は線ABに対して傾きをもっているのですが、三角形ABOは二等辺三角形ですので、線ABに対する底面の傾きは、A部とB部で同じになります。

こちらは、積分を用いるまでもなく、簡単に理解できるのですが、球殻の外部にある点に対して同様な簡単な説明ができないものか、と思うのですね。

ちなみに、点が外部にある場合も、同様の円錐が球殻を切り取る二か所(AとB)が作る引力は、大きさは同じになりますが、方向も同じになり、これを合わせた力は二倍になります(下図右)。

球殻内部の引力 球殻外部の引力

地球とリンゴ:潮汐力と各物体の大きさ

潮汐力の話もそう。潮汐力の話で重要なのは、リンゴ側のA点とB点では地球との距離が違うのだから、かかる重力の強さが違う、という点が話のポイントなわけ。

その点が重要だから、地球側のどこを中心にリンゴとの距離を測るか(地球の中心なのか地表なのか)は、話の主眼ではないので、ああいう図を書いたわけ。あなたも書いてみればいいと思うけど、地球の中心からにすると、図が書きにくいわけですよ。だから「まあこの図で言いたいことは伝わるだろう」と思ってああいう図を書いたわけ。でもあなたには伝わらなかった。

MechaAG氏のリンゴ 実際のリンゴ

地球の万有引力は中心にすべての質量を集めたように作用するという話をしているときにこの図を示されたら、こりゃ駄目だ、と思ってしまいます。

地球の中心からにすると、図が書きにくいわけですよ」というご意見はごもっともです。そのように図を書こうとすると、上の右の図のように、リンゴは点にしかならないのですね(これでもリンゴは大きすぎますが)。そして、それが現実の姿だ、と私は言いたいわけです。(この事実は、潮汐力がごくわずかであることも暗示しています。)

また、上の右の図を書いてみれば、なぜ矢印の一方を地球の中心におかなくてはいけないのか、ちょっと不思議に思うのではないでしょうか? まあ、そう思わなくても責めたりはしませんけど、ここは、不思議に思っても不思議ではないところです。

地球とリンゴ:地表のリンゴと地球間の距離

問題は、地球の全質量を地球の中心に集中させて扱うことができるという事実が重要である理由です。

だから潮汐力について高校では教えないように、重力が作用する点についても、高校で教えなくても、いいんじゃないですか?という話をしてるんですけどね。

あなたが重力の作用点を重要と考え、高校でも教えるべきだと主張してるのは、耳に胼胝ができるほど聞いたわけですよ。でも物理全体を考えた場合、高校3年間という時間制限の中で何を優先して学ぶのが適切かを考えた場合、あなたが潮汐力は優先度が低いと考えたように、重力の作用点も優先度が低いんじゃないですか?というのが俺の話なわけ。

ここが、重力をめぐる一連の議論の最も大事なポイントなのですが、手を変え品を変えてのご説明にもかかわらず、この重要性をご理解いただけていないとなりますと、この議論は全くの無駄ということになります。

ここは匙を投げるしかなかろうと思ったのは、実にこのポイントです。

おそらくMechaAG氏以外の読者にはご理解いただけているという思いもありますので、これ以上無駄なことはやめにしようと考えた次第です。改めてご質問いただけば、何度でもご説明いたしますが。

前回書いたことですけど、このポイントを以下に再録しておきます。

実は、プリンシピアが出版された1687年は、ガリレオ裁判の行われた1633年から、わずか54年しか経過しておりません。ガリレオ以前には、そもそも天体と地上の物体は異なるもので構成されていたとまで考えられていたのですね。

それを同じ法則が支配していることを立証したのは大きな業績なのですが、このための重要なポイントが地上の物体に作用する地球の重力は、地球の全質量を中心に集中したものとして扱えるとした点です。

万有引力の式は、"α = F/m = GM/r2”という形に書くこともできます。ここで α は加速度ですが、月の公転周期と月までの距離から計算されるのは月の加速度であり、地上のリンゴに働く力も重力加速度として計測されるのですね。

そして、ニュートンの時代には地球の質量と万有引力定数を掛け合わせたGMが一つの定数として扱われていました。

そうなりますと、地上のリンゴと月とを同じ力が引っ張っているか否かを決する重要なポイントは、距離 r ということになり、リンゴと地球の間の距離をどのように定義すればよいかが重要な課題となるわけです。

ガリレオは、自らの望遠鏡で月のクレーターを見て、天体といえどものっぺらぼうの球体ではなく、地球と変わらない山あり谷ありの世界だということに驚愕いたします。そしてガリレオと同じ時代を生きたデカルトは、これまでの常識に反して、天体と地上は同じ物質で構成されているという説を唱えるのですね。

これが、ニュートンがプリンシピアを発表する僅か50年あまり前の話です。ニュートンはこれに付け加えて、リンゴを下に引っ張る力と月を引っ張っている力が同じ地球の万有引力であることを証明します。

これに必要な一つの鍵が、球殻が生み出す距離の二乗に反比例する力は、すべてを中心に集めた場合と同じであるとする、ニュートンが証明した定理31(プリンシピア第1巻 p.308)でした。

この定理を無視しては、この二つの力が同じ原因であるとの説明はできないのですね。

そういう重要なポイントをスルーして、ただ、万有引力は重心に作用しますと教えるのは、あまり科学的な態度であるとは言えないと思うのですね。つまりそれは「当家の家風です」といっているのと変わらない、というわけです。

それで納得してしまう人には、かける言葉もないのですが、、、


MechaAG氏への反論、その10:#500

18号物件天井照明のなぞ

MechaAG氏と私の認識がどこで異なっているのか、なんとなくわかったような気がします。

イケハヤランドはコンテンツというのが私の認識で、ダッシュ島みたいな企画という位置づけが半分あるものと理解しています。彼らはブログで飯を食おうとしていたのですから、イベントが必要だったはず。だから、何でも自分たちでやろうとする。

この部分をまともに批判する行為は、何でダッシュ島に鉄道を敷かなくちゃならんのだ、などといっても始まらないのと同じ話だとおもうのですね。もちろん、何かをする以上、大真面目でやっているのですが、基本部分を批判しても始まらないように、私には思われます。

一方、18号物件は、作業場なり自宅という認識で整備されたはずで、施工もプロの業者を起用しております。電気配線は特に、資格がないとできませんので、業者がやっているはずです。これをイケハヤランドと同一に論じてはいけないと思います。

もちろん、専門の電気工事業者が照明のスイッチをどうするか聞いたときに「そんなものはいらない」とイケハヤ師が答える可能性もゼロではなく、実際のところがどうであるのかはわかりません。まあここで、「要らない」という人はあまりいないように、私には思われるのですが。

なお、18号物件のシロアリに関しては、イケハヤ師の完全なミスで、この部分は木質の建材がシロアリに喰われるリスクに関して、イケハヤ師が全く無知であったのではないかと思います。こういう知識は、ないから異常、というほどのものでもありませんが。

除草剤問題

これは除草剤の件もそうだけど、あなたはモモンガ創世記の記事だけを見て、判断したわけでしょ?そして俺も自分(あなた)と同じようにモモンガ創世記の記事を見て判断したと思ったわけでしょ。

これがそうでないことは、イケハヤ関連を扱う前回のエントリーの「除草剤問題の展開」を見ていただければご理解いただけると思います。

ご参考までに、最初の部分を以下に引用しておきます。

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除草剤問題の展開

「イケハヤ界隈の現実」からの問題提起

この問題は、ツイート「イケハヤ界隈の現実」から、パラベル氏による18号物件周囲への除草剤散布への疑問が提起され、さらに、これに対するパラベル氏の回答を不十分として一連の批判がおこなわれます。

ただし、この「拡散希望」とされたツイートに引用されたパラベル氏のつぶやきのうち、三つ目のものは、イネの植わっている田んぼわきの雑草が刈られた様子が示されているのですが、これは除草剤とは全然関係のない草刈り機によるものであり、この部分に掲載することは除草剤が稲田に隣接する箇所に散布されたとの誤解を与える可能性があります。

この批判を受けて、5チャンネルで話題が沸騰するほか、多くのアンチの方が批判的なエントリーを挙げられていますが、その一部も、この誤解に基づくものと思われるものがあり、この問題提起自体も、少々問題があるように私には思われます。

なお、パラベル氏の反論は、一応、筋は通っているようです。

モモンガ創世記での批判

イケハヤ師のツイートとこれに対するアンチのツイートを収録した「モモンガ創世記」は号外からこの除草剤問題を扱っております。

以下省略しますが、関係者のツイートと5チャンネルは押さえております。モモンガ創世記を引用しているのは、この記事が最もわかりやすいとの理由によります。

地球とリンゴ

今回の重力の話もそう。地球を大きさのある物体とみなすなら、リンゴ側も大きさのある物体とみなすべきじゃないですか?と言ってるわけ。そしてリンゴを大きさのある物体とみなした場合、潮汐力とかが生じますよ、と。そういうことを考えるのも科学の面白さですよ、と言ってるわけですよ。

俺はあなたに「考えるな」なんて一言も言ってないでしょ?「もっと考えろ」と言ってるのですよ。地球が点でなく大きさを持った物体だと考えたなら、そこからもっと考えて、リンゴについても大きさを持った物体だとかんがえるべきじゃないですか、と。

あなたは人の話を聞いてないわけ。俺が何の話をしてるか、何をあなたに伝えたいかを考えたこともないんでしょ?自分が言いたいことを、壊れたレコードのように繰り返すだけ。相手が何を言いたいのか?は考えない。それでは他人から何かを学ぶことはできないのですよ。

MechaAG氏は、このお話のそもそもの始まりを完全に見失っておられるようです。私はこの議論を、トマス・クーンのパラダイムシフトに際して教科書の書き直しが必要となるという話から、一般的な場合にも、教科書を原理原則部分から掘り返した方が良い場合があるよ、というお話で、以下のようにスタートさせたのですね。

なお、教科書を読むだけではできないのは、既存の知識体系をひっくり返すような研究をする場合であって、一般的な研究者、技術者は教科書を完全にマスターしていれば十分なのですね。

でも、教科書をマスターするにしても、なぜそれがそうでなければいけないかという好奇心があれば、これを満足させるためには、原理原則部分からの掘り返しが必要なのですね。

実は、ニュートンの万有引力の法則は、これを使うに先立って一つの大事な原理を覚えておく必要があります。それは、球殻に作用する重力は、質量が中心に集中しているように働く、ということなのですね。これは距離の二乗に反比例する力一般に言えることです。

注意すべき点は、あくまでこれは「球殻」に対してであり、その他の、たとえば棒状の物体などでは、重力は重心に作用するわけではありません。

ニュートンの業績は、ニュートン力学全般に及ぶのですが、特筆すべきは万有引力の法則であり、就中、同じ地球の重力が地上の物体にも月にも作用する、という点です。

実は、プリンシピアが出版された1687年は、ガリレオ裁判の行われた1633年から、わずか54年しか経過しておりません。ガリレオ以前には、そもそも天体と地上の物体は異なるもので構成されていたとまで考えられていたのですね。

それを同じ法則が支配していることを立証したのは大きな業績なのですが、このための重要なポイントが地上の物体に作用する地球の重力は、地球の全質量を中心に集中したものとして扱えるとした点です。

万有引力の式は、"α = F/m = GM/r2”という形に書くこともできます。ここで α は加速度ですが、月の公転周期と月までの距離から計算されるのは月の加速度であり、地上のリンゴに働く力も重力加速度として計測されるのですね。

そして、ニュートンの時代には地球の質量と万有引力定数を掛け合わせたGMが一つの定数として扱われていました。

そうなりますと、地上のリンゴと月とを同じ力が引っ張っているか否かを決する重要なポイントは、距離 r ということになり、リンゴと地球の間の距離をどのように定義すればよいかが重要な課題となるわけです。

だから、教科書にも、このあたりの記述はきちんとしてほしいところではあります。

その他の潮汐力などにつきましては、考えることは無駄であるとは思いませんが、今ここで考えなくてはいけない問題か、となりますとそうではない。何から何まで書き始めますと収拾がつかなくなってしまいます。

MechaAG氏が言われるように、月ほどの大きさのリンゴであれば、距離 r の定義に際してもリンゴの大きさを考えることに意味があるかもしれません。でも、ニュートンも普通の人も、リンゴといえば直径10cm程度の大きさを想定しており、この程度であれば、直径13,000kmほどの大きさを持つ地球に対してリンゴを点とみなして扱っても大きな誤差は生じません

これが、私がリンゴの大きさを無視している理由です。上の引用部の最初の部分「今回の重力の話もそう。地球を大きさのある物体とみなすなら、リンゴ側も大きさのある物体とみなすべきじゃないですか?と言ってるわけ」に対して、私の見解は否定的であるわけです。

少なくとも、地球の万有引力は月とリンゴの双方に同じように働いているという、ニュートンの発見のキモの部分を議論する限りにおいて、そういうことが言えるのですね。


MechaAG氏への反論、その9:#498

18号物件天井照明のなぞ

あなたは俺がイケダハヤトのどの面を批判し、どの面を評価してるかとかも、考えてないよね?「あ、これはイケダハヤトを小馬鹿にしてる記事だ」と思ってるわけでしょ。ずいぶん雑な推論だと思うよ。

んで他人の推論の精度を批判するなら、自分の推論ももっときちんとやったらどうですか、他人のことばかり批判してないで、自分を高める努力をしたらどうですか、と申し上げてるわけですよ。

これについては何度も書いているように、批判しているとか、小ばかにしているとかいう問題ではなく、判断する際の材料に、判断結果が反映されているという事例が見出されたので、これは面白いですね、と紹介しているだけです。

地球とリンゴ

だから「あなたが考えたいこと」と「理系が考えたいこと」が違うというの話をしてるのですよ。あなたは具体的に地球の地表付近になる普通のサイズのリンゴについて考えたいわけでしょ?

まあそれを考えたいなら考えればいいけど、俺がリンゴにかかる潮汐力の話で「考えたい」「あなたに考えた貰いたい」ことは、別なことなわけ。俺はあの説明で、リンゴには潮汐力が働いていて、それはリンゴを粉砕してしまう方向に作用してると述べた。

でもあくまで目の前のリンゴについてだけ考えるなら、リンゴが地球の潮汐力で粉々になるなんてことはないよね?地球の重力がブラックホールとか中性子星並の強さを持ってないとそういうことは起こらないわけ。

だからあなたがあくまで目の前の現象「だけ」を考えたいなら、リンゴに作用する潮汐力は無視してかまわない。でも科学ってそういうものではないのですよ。というかそれだと科学はつまらないと思う。

だって「そんなこと考えても、何の意味があるの?」となるじゃん。実際、何の意味もない。リンゴに働く潮汐力は無視できるほど微量なのだから、考えなくてもいいわけ。

まあ、いろいろ考えるのは勝手なのですが、私がこの話を持ち出したそもそもの動機は、全然別のところにあるのですね。

ニュートンの重力理論の重要なポイントは、地球と月が引き合っているのと同じ力がリンゴを下に引っ張っているという点で、“F = GMm/r2”という式がリンゴに対しても月に対しても同じ定数Gで成り立つ、という点なのですね。

これを具体的に計算する際に問題となるのが"r"、つまり、双方の間隔なのですが、月と地球の間隔であればどこで測ってもさして変わらないのに対して、リンゴと地球の間隔は、そうそう簡単に決めることができない。地表からの高さを間隔とすることだって感覚的にはおかしくないのですね。

で、球体間に作用する万有引力を計算する場合は、中心間の距離を使う。これを、教科書に書いてあるんだからそうしなさい、というのは一つの行き方ではあるのですが、そこで「なぜ」となるのも大事なことだと思うのですね。

本日の読売新聞朝刊に外山滋比古氏に対するインタビュー記事が掲載されていましたけど、この中で外山氏は次のように語られているのですね。

考えるってね、案外難しいですよ。考えたと思っていたことが、実は考えていたつもりにすぎなかったことがよくある。学校でも「AはB」とは教えても、「AはどうしてBになるか」まで教えられることは少ない。考えるためには苦しまなきゃいけない。今の状態から抜け出すにはどうしたらよいかと。あれこれ苦しんでいる状態が結果的に考えることになる。

このお話を援用すれば、苦しんでいる人に別の苦しみを教えてあげても大した助けにはならない、ということですね。苦しんでいる側から言えば、おなじところで苦しんでいただきたいのですね。

まあ、むりに、とは申しませんが、、、


MechaAG氏への反論、その8:#495

右側のWHAT’S NEWも過去のエントリに追記したら「追加」と表示さるのかなと思ってたんだけど、そうなってないよね。それが本来の動作なのか不具合なのか知らんけど。ということで更新が追いかけにくいのであった。まあ気づいてるならいいけど。

右側のWhat's NEWは手で入れております。このエントリーのようにちょこちょこ追記しているものを一々書きますと、それだけでこのリストがいっぱいになってしまいますので、大きな変更があった場合にのみ「追加」としております。

何か良いアイデアがあれば対応いたしますが、どういたしましょうか。

18号物件天井照明のなぞ

あなたは想像力が大事だと言ってるのに、想像力がないよね。あなたが思ってる「想像力・発想力」のレベルはかなり陳腐なわけですよ。重力の話もそうだし、除草剤の話もそう。あなたが自分で言ってるように「平凡な人間の行動」を予測してるに過ぎない。

それだと平凡な、つまらない、すでに誰かが考えたような結論をなぞったものしか発想できないのですよ。イケダハヤトを普通の常識的な人間、計画的で準備に余念がない人間という前提で考えてるわけですよ。

しかしそうではないわけ。そもそも平均的な人間がこれだけブログで注目を集めて話題になると思う?ネットの人間の行動を研究してるんでしょ?そういう人が、こういう陳腐な範囲でしかものを考えられない点で、正直、なんだかな、とあなたの底が知れてしまったわけ。

本件に関しては、イケハヤ師が【平凡-非凡】の軸上のどのポイントにあるかの問題で、私が平凡寄りに想定しているのに対して、MechaAG氏は相当に非凡サイドに想定しておられるわけでしょう。

こういういろいろな見方があることを否定はしませんが、今回の脚立の件の面白い点は、脚立を置いた目的を、この平凡-非凡軸の位置づけに対応して解釈し、その結果、この位置づけ自体が強化されるという点が非常に面白いということです。

そりゃあ、果てしなく非常識な人間がいてくれれば世の中は面白いかもしれない。でも、そんなものを求めるのは、宇宙人や未来人や異世界人を求める涼宮ハルヒこちらもどうぞ)みたいな考えであるような気がします。

陳腐で面白くはないかもしれませんが、私は常識人なのですね。こればっかりは、仕方がないです。

また、本件に関しては、イケハヤ師自身が照明の配線をしたわけでもないでしょうし、資材調達の都合上、図面も書くだろうし、関係者を交えての確認もするだろうとの思いもあります。その際に、イケハヤ師がスイッチなど要らないと言い張れば大したものなのですが、あまり起こりそうなシチュエーションには思えないのですね。

まあ、私がそう思っている、というだけの話ではあるのですが、、、

地球とリンゴ

地球がリンゴの及ぼす重力が、地球の各所の微少な部分とリンゴの重力の合成だと考えるなら、リンゴも「点」ではないのだから、リンゴについても微少な部分に分割して考えなければならないと、俺は指摘した。その「意味」も分からなかったらしい。

物事を考える場合は、まず、大づかみに考えるのですね。前回の反論で、地表付近のリンゴ内部の6.3cm離れた点に作用する地球重力の差は、リンゴに作用する重力の一憶分の一であることをご説明しました。

では、地球の全質量がリンゴ直下の地表に集まっていた場合の重力がどの程度になるか、ちょっと考えてみたらよいと思います。リンゴの地表からの高さを6.3mとすれば、地球半径はこの百万倍ですから、重力はその二乗で効いて一兆倍になる。

一兆倍になるかもしれない要因と一憶分の一の違いしか生じない要因を並べて論じるのは少々おかしいのですね。

地球とリンゴの分割の仕方については、たとえば、地球-リンゴモデルを有限要素法で解析する場合を考えればわかりやすいでしょう。普通のセンスの人なら、地球を要素分割する際にはかなり大きめの要素に分割するでしょうが、リンゴを細分化するかどうかはちょっと考えてしまう。

少なくとも、リンゴの下の地球を一辺数キロメートルほどの要素に分割するのであれば、直径10cm程度のリンゴをさらに要素分割する理由はあまり感じないでしょう。

リンゴも「点」ではないのだから、リンゴについても微少な部分に分割して考えなければならないという主張は、運動会の徒競走で、みんな手をつないでゴールインいなくちゃいけない、というような話を髣髴させます。

リンゴと地球を同列に並べるのは論外であり、地球のサイズに比べたら、リンゴなど点で十分だというのが、私の正直な感覚です。それぞれの大きさをイメージとして掴んでいる人は、そう考えるのではないでしょうか。

以下、次のリンゴの話まで、少し飛ばします。

あなたのいう「感覚」って要は「日常」ってことでしょ?俺が描いたリンゴはすごく大きいんですよ。月ぐらいの大きさがある。あなたは普通のサイズのリンゴを勝手に想定してるわけでしょ?

うぁお、そういう話でしたか。そういう話ならそういう話と最初から断っていただかないと、なんか、自らの間違いを指摘された子供が、荒唐無稽なことを言い出しているように見えてしまいます。

もちろんここで議論していたのは、月などの天体に作用する地球の重力を考えるときは、地球の質量が地球の中心に集まっていると考えて(仮にそれが間違っていても)そうそう大きな狂いは生じないだろうけど、地上のリンゴを引っ張る力を論じる際には、地球の質量が中心に集まっていると考えてよいかどうかは重要な問題だ、ということなのですね。

そして、そうなることは自明の理でも何でもなく、重力が距離の二乗に反比例するという性質と球体の幾何学とがたまたま生み出した結果であるわけです。もちろん、幾何学も重力の性質も変化するものではありませんから、たまたまという表現は正確ではないかもしれませんけど、感じはわかりますよねえ、、、

ニュートンはプリンシピア第3巻の224ページ以降で神について述べ、宇宙のこの巧妙な仕組みにより神の実在を確信しているのですが、球体の重力がその質量を中心に集めた形で作用するという結論も、神の意図を強く確信させるものであったように、私には感じられます。

下の図はキャベンディッシュの重力定数測定装置ですが、この場合も球体同士の間の重力を測定しております。球を使用することで、重力の作用する距離として二つの球体の中心間の距離を用いることができるのですね。普通に考えれば、とても不思議なことなのだが、、、

Cavendishの重力定数測定

ニュートンについて、他

でもニュートンの時代から数百年経ってるわけですよ?なのになぜ今更ニュートンなのか?

私はニュートンにはさほどこだわってはいませんよ。プリンシピアをご紹介した際にも、絶対時間絶対空間が否定されることは、きちんと説明したつもりです。このあたりは、よく読んでいただけば、ご理解できるはずです。

その他、直観をめぐる問題につきましては、かなり入り組んでおりますので、もう少し整理してからご紹介します。


MechaAG氏への反論、その7:#491

まずは、18号物件スイッチのなぞです。

部屋の外にスイッチが付いているという可能性がもしあるなら、これを否定しなければいけないのはスイッチをつけ忘れたと主張する側であって、普通起こりそうなことが起こっていると主張するサイドは、それが普通になされている可能性を指摘するだけでよい。

まあこの箇所についてはあんたの主張は全くその通りだと思うよ。しかし「5chで解析されている」と書いてるのだから、それぐらい自分でググりなさいよ、という感じなんですけどね、俺としては。

元記事ここから

https://twitter.com/IHayato/status/1158161717186031617

この脚立はなんなのか?という問題が5chで解析されてる。脚立の上に照明のライトがある。このフロアの広さでこれだけの照明だと不足する気がするけど、それはまあいい。

問題は壁面に照明のスイッチが見当たらないこと。つまりこのライトを点けたり消したりするたびに、脚立に乗ってライトに手を伸ばして直接ON/OFFしなければならないのではないか?という話。

このブログでも、最初の部分にあげました過去のエントリーで、イケハヤ師に関する5チャンネルのスレッドは追いかけています。

で、確かに電気配線を忘れたのではないか、という書き込みはありましたが、作業場の電気配線は必ずしも壁の中を通すものでもなく、後から外付けしてもよいし、スイッチにしたところで室外にまとめて配置してもよいはずだし、写真に写っていないだけで、前方の壁に下がっている配線の先にスイッチがあるのかもしれない。

で、室内にスイッチが見当たらないことと、照明の下に脚立があることから、「このライトを点けたり消したりするたびに、脚立に乗ってライトに手を伸ばして直接ON/OFFしなければならないのではないか?という話」になるのがすごい、というのが私の感想なのですね。

これは、誰かを非難しているのでも何でもなく、そういう発想が生まれるというのがすごい、とただひたすらに感動しているのですね。まあ、この話を読まれる普通の方もそう思うのではないかな?

それで、この発想が生まれる背景はMechaAG氏に言わせれば次のようになるわけです。

イケダハヤトに関しても、まったく予備知識がない状態なら「平均的人間」と仮定して推論するのが妥当。しかし過去の行動の情報があれば、その情報を考慮して推論するのが妥当なのですよ。イケダハヤトはこういう場面ではこう判断するというパターンね。

つまり、イケダハヤトはリフォームをする際に照明スイッチをつけ忘れ、脚立に乗って天井のランプに手を伸ばしてON-OFFするような人間であると判断されるわけですよね。この判断の決め手がランプの下に脚立が置かれた写真であるわけです。

でもその写真を(ランプの向きを変えるためという)別な解釈をすれば、この判断の決め手はなくなってしまう。そこに人に対する評価のアバランシェ現象といいますか、評判が評判を呼び、といった効果が見えるところが、このお話の面白いところであると感じた次第です。

これ、誰かを非難しているわけではないですからね。

次に文系・理系の問題です。

俺的には、理系能力が文系能力より優れてるのが理系、文系能力が理系能力より数れてるのが文系、んでこれらはともに理系能力、文系能力が一定レベル以上あるというのが条件で、それに満たないのが馬鹿というイメージで3つに分類した。

こういうあいまいな基準で分類して、文系を非難したりするのは妥当ではないと思いますよ。決めつけるなら、アリ、ナシで判定しなくてはいけません。

そもそも文系能力と理系能力を比較することなどできるのですか? 方向性が全然違う能力を比較するのは、1kgと1kmを比較しているようなものだと思いますけどね。

まあ、アリ、ナシというのも極端だというなら、結局のところ、文系能力で飯を食おうというのが文系人間、理系能力で飯を食おうというのが理系人間、ということではないでしょうか。

直観の価値

優れた研究者は、すべて理屈で考えるのではなく、「なんか変だ」とか「気持ち悪い」といった直観を大事にするのですね。

石井淳蔵著「ビジネス・インサイト」を読む | ニューロンとワイヤの狭間から

リンク先の記事も含めて、それは「素早い60点」と「時間をかけた90点」の話に帰結するのですよ。直観というのは「素早い60点」なわけ。一方科学が目指すのは「時間をかけた90点」なわけ。

時間を掛ければ90点になるとしても、時間を掛けなければ0点なのですね。直観には、時間をかける価値があるかどうかを瞬時に判断する機能があるのですね。

だから、経営的判断にしても、直観的判断の後で、さまざまな数字を駆使した理性的な判断がおこなわれているはずですよ。

だから、地球の重力がそのすべての質量を地球の中心に集めたと同様に作用するという話を、地上のリンゴを引く力にもあてはめた時、これをおかしいと感じるのは、優秀な研究者の備えるべき特性だといいたいわけです。

だから俺はそれ自体は否定してないでしょ。むしろ「だったらリンゴ側の点Aと点Bについても、さらに考えるべきじゃないの?」とその方向をもっと推し進めるできでしょ、と言ってるんだけど?

この点がMechaAG氏のおかしさが現れている点で、リンゴ側の点Aと点Bというとき、そこに加わる重力の差がどの程度になるかをまず直感的に判断しなくてはいけない。それを押そうとするなら、その次に、重要な数値部分をきちんと押さえなくてはいけない。

この場合は、重力の作用する距離と物体の大きさの関係が決め手になるわけで、この部分を感覚的に把握していないから、距離を地表から表示したりすることにもなるのですね。

MechaAG氏のリンゴ MechaAG氏のリンゴ2

つまり、地球の半径が6,300kmあるのに対し、リンゴの大きさは点Aと点Bとの間の距離で6.3cm前後と、非常に小さいのですね。だから、この双方に作用する重力の大きさの差は、地球の全質量が地球の中心に集中したと仮定して、リンゴに作用する地球の重力の一憶分の一程度であるわけです。(距離の効果は二乗ですから、差は一億分の二が正確ですが、ここはオーダーエスティメーションということでご理解ください。)

リンゴに作用しております地球の重力は、リンゴの重さにほかなりませんから、まあ、1kgfといったところ。そうなりますと、点Aと点Bとに作用する重力の差は10μgf程度となります。リンゴは枝にぶら下がって破断することもありませんから1kgf程度の引っ張り荷重には十分耐えられるわけで、10μgfの力が問題となる可能性は全くない。

こういうことは、リンゴの大きさや地球のサイズを感覚的に把握しておれば、瞬時に問題ないと分かるはずで、このような荒唐無稽な図を描く理由は全くないのですね。

逆に、直観的把握により、これは少々厳しいか、と思えばきちんとした計算をすればよい。その計算をするかしないかを決めるのが直感的判断の役割であるわけです。

それを理屈で議論しようとするから、「あんたは地球の大きさを問題にするが、なら、リンゴの大きさは問題にならないのか」、という問いの立て方をしてしまう。そりゃ理屈ではそうかもしれないけど、それぞれの大きさを感覚的に把握していれば、そんな言葉は出てこないのですね。

現実問題として、あらゆる可能性を解析して90点の回答を得るようにすれば、最適な道を選べるのでしょう。でもそれには手間がかかるし、場合によってはお金がかかる。直観に優れる人は、解析すべき案を素早く見つけ、そこを集中的に考えることができます。

だから、研究者であれば、特に研究テーマを決める人は、この直感的判断力を持っていなくてはいけない。多数の研究者と資金をかけて90点の答えを得るためのプロジェクトを始めるかどうかを判断しなくてはいけないのですね。

もちろん、個々の研究者も、可能性のありそうなところを考えるという意味では、この直観力は大事です。それが、センスの良い研究者、テイストの良い研究者というものなのでしょう。


MechaAG氏への反論、その6:#487

>> でも、イケハヤ師ならおかしなことをしてもおかしくはないと
>> 考える人から見れば、イケハヤ師は天井照明のスイッチを準備
>> せず、梯子を使って照明をON-OFFしている、と考えている様子
>> なのですね。

> この箇所がどう考えてもこの人が奇妙な点なんだよな。だってさ、
> 物事を研究するというのは、対象物に関して詳しくなるというこ
> とでしょ?

> 例えば動物の「犬」に詳しくなるというのは、他の動物と犬の違い
> を研究するとうことでしょ?

> イケダハヤトにはイケダハヤトの個性があり、一般的な人間の平均
> 像とは違う。別にイケダハヤトに限らず、俺も、あなたも、それぞ
> れ個性があるはず。「平均的な人間像」というモデルがあったとし
> ても、実際にはそんな人間は存在しない。テストで50点を取った生
> 徒と70点を取った生徒の平均は60点だけど、60点の生徒は実在しな
> いわけですよ。

> それと同じように「平均的な人間像」という人間も実在しない。

.

ここも面白いところです。つまり、MechaAG氏から見ると、普通というのがない様子なのですね。

5チャンネルにせよ、ブログの類にせよ、何らかの情報を伝達しているのですが、情報の意義といいますか、これを読んで読者が得る価値は、情報エントロピーという形で評価される。これ、起こってあたり前のことが起こったというニュースは情報量がゼロに近く、起こりにくいことが起こったというニュースは情報量が大きくなるのですね。

犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」というのは、情報量を考えるとあたりまえの話であって、前者はよく起こることだからそれが起きたというニュースには情報量が乏しく、後者はめったに起こらないから、そのニュースには情報量が多く含まれるわけですね。

で、イケハヤ師と18号物件の天井照明の話にこれをあてはめますと、天井の照明にスイッチが付いているのはあたり前の話であるから、そんなことをわざわざ書く人はいないのですが、イケハヤ師が作業場の天井の照明にスイッチを付け忘れたということは、ふつうそんなことをする人はいないのだから、大きな情報量が含まれ、あえて書くだけの価値を持つといえます。

そして、めったに起こらないような珍しいことが起こった、という情報を発信すると、それはあまり起こりそうもないことであればあるほど、「本当か?」というレスポンスが当然返ってくるわけで、これに対する反論ができる形で発信しなければいけないのですね。

だから、部屋の外にスイッチが付いているという可能性がもしあるなら、これを否定しなければいけないのはスイッチをつけ忘れたと主張する側であって、普通起こりそうなことが起こっていると主張するサイドは、それが普通になされている可能性を指摘するだけでよい。

で、今回問題となっている部屋は作業場として作られた部屋なのですね。私も、光学機器メーカで仕事をしたり、電機会社を何度も訪問しているのですが、作業場の照明スイッチは多くの場合一か所に取り付けてあり、ドアの外の廊下の壁面に取り付けてある場合もしばしばあるのですね。

この手の会社は、個々の作業場で行う業務がちょくちょく変更になり、特に壁側には大きな装置が置かれたり棚が置かれたりする。そういう場所にスイッチなどを付けておくと邪魔になるのですね。廊下には、基本的に物を置いてはいけませんから、壁にスイッチを設けても、その前にものが置かれる心配はないのですね。

スイッチをまとめて設置する理由は、作業開始時に必要な照明をすべて点灯し、作業が終わったらまとめて消灯する。スイッチが一か所にまとまっておれば、こういう作業は効率的に行えます。だから、イケハヤ師の作業場が同じようになっていたとしても不思議はない。

確かに、作業場をリフォームしている際に、電気の配線がないことを疑問視する声が5チャンネルにもあったのですが、作業場なら電気の配線は後付けでも何の問題もないのですね。

18号事務所の照明

で、今回のポイントは、イケハヤ師のツイートに、作業場に梯子のある上の写真が掲載されたこと。これを5チャンネルの人は、天井の照明についているスイッチを操作するために梯子が置かれていると考えたわけです。

確かに梯子の用途がスイッチの操作以外に考えられないなら、梯子の存在は、スイッチの設置忘れの証拠になるでしょう。でもこの写真、照明器具があちこちを向いているのですね。ならば、照明の向きを調整するという作業をした可能性もあるわけで、私はその可能性を指摘して、スイッチのつけ忘れの証拠にはならないとしたわけです。

何が起こっているかを推論する際に役立つ原理に「平凡の原理」というものがあります。要は、めったに起こらないようなことなどめったに起こらず、たいていは起こりそうなことが起こる、という原理で、統計的にもこれが正しい。というよりも、統計とはそもそもそういうものなのですね。

今回の18号作業場の照明に関しても、まずは平凡の原理で考えたらよいのではないかと思いますよ。つまり、そこで行われているのは普通のことだと考えるのですね。

もちろん、イケハヤ師は異常な人物なのだから異常な行為が平凡原理にかなうとする見方も成り立つと思います。その場合には、このはしご自体が、イケハヤ師の異常さを裏付ける一つの材料になるわけで、これはこれで面白い。

だけど、普通、そこまで異常ということはありそうもない。これはこれで、もう一つの平凡原理でもあるのですね。


MechaAG氏への反論、その5:#484

A) 理系
B) 文系
C) 馬鹿

この3つがあるのに、B)とC)が一括りになってるのが「文系」の不幸ですな。C)は「理系でない」というだけで、本来は文系じゃない。

すばらしい、エクセレント、トレビアンです。この手の分類をみますと、直観的に二項対立という概念に行ってしまうのですね。そして「馬鹿」。なんと素晴らしい言葉でしょうか。

実は、ネットコミュニケーションを研究する過程で、極めて高確率で炎上を招く言葉が見出され、それが「馬鹿」だったのですね。そこで、馬鹿について、一度研究してやろうと考え、馬鹿に関する書物をコレクションしたことがありました。

そこで見出された驚くべき現象は、バカを書名に含む書物はバカ売れする傾向が高い、ということ。多くの評論家がこれで注目されたり、ベストセラーを飛ばしております。

   

上はその代表的なもので、これらのヒットの結果、やなぎの下の二匹目のどじょうを狙うものも出ておりますが、こちらは省略しております。なお、最後の「バカのものさし」に関しては、面白い本でお勧めではありますが、どの程度売れたかは定かではありません。その他、ホリエモンも何か書いておられたような気がいたします。

余談ですが、「馬鹿」を書名に含みながらも絶対にヒットしないと思われる書物が、以下のサルトルの書物。以下はアマゾンへのリンクとなっておりますが、購入ボタンを押す前に、価格をご確認ください。今更サルトルとは言いませんけど、この値段はないような気がします。

   

馬鹿に関するこのブログの議論は以下の通りです。
三つの知性と三種類の馬鹿
ディオニュソスと三つの知性
天才を殺す凡人と、これからの経営
世界の崩壊を防ぐアンバサダーと三種類の馬鹿
三つの世界と三つの知性

で、ちょっと遠回りしましたが、本題に戻ります。

MechaAG氏は、「理系」、「文系」、「馬鹿」の三つに分類しているのですが、二項対立という概念に従えば、「Aであるのかそうでないのか」、「Bであるのかそうでないのか」といった分類を行うことになり、最終的に4つに分類されるはずです。

そしてその一つが能力の不在を意味する「馬鹿」であるなら他の二つは何らかの能力の存在を意味するはずで、「理系能力の有無」、「文系能力の有無」が分類基準になるはずです。

でこれをやった結果が次のようになります。

理系能力だけあって文系能力のない人:理系
文系能力だけあって理系能力のない人:文系
理系能力と文系能力のいずれもない人:馬鹿
理系能力と文系能力を共に備える人:学術系

学術系なんてインチキ、理系能力と文系能力を共に備えるなんてありえない、と思われる方も多いかもしれませんけど、実は相当以前から、「学際領域」という分野が注目されており、そういう教育コースも多々作られているのですね。

たとえば私の修士コースが「経営システム科学」で、文系である経営学と、理系である計算機科学とORなどの数理解析を合体させたコースでした。そして博士コースは「先端学際工学」、工学系研究科でありながら、文化人類学の先生や経営学の先生がおられ、インターネットを文化人類学的に研究する、などということができました。

私の学位請求論文を審査していただいた先生方の一人に野口悠紀雄教授がおられたのですが、この方、経済学者として通っておられるのですが、学部は応用物理学科だったのですね。文系・理系という区別は、入試から学部レベル程度と考えておいた方が良いかもしれません。

なお、学際領域で得られる学位は、いわゆるPhDで、文部科学省の正式呼称では「博士(学術)」という、いまひとつ締まりのないものです。まあ、PhDを直訳すると「哲学博士」になってしまい、こちらも実に怪しげな呼称ではあるのですが。

でも、哲学という学問領域は、実は全学問分野を統合した領域で、個々の分野に細分化される前の学問領域は哲学にカテゴライズされておりました。ギリシャ時代はすべてが哲学であり、アリストテレスは生物学もテリトリーとしており、ウニの消化器官にもその名を残しております。

ニュートンのプリンシピアも「自然哲学の数学的原理」という副題がついており、彼は哲学として物理学を扱った。バチカンが天体の運行に口を挟めると考えたのも、この領域が哲学(神学の婢:はしため)のテリトリーだと考えたからでしょう。

今日では、物理学は哲学から分離しております。そして、心理学も、多分、フロイトらが活躍した時代ごろに、哲学から分離したのではないかと思います。

でも、哲学者(というか、学際領域を扱う学術系研究者)がこれらすべての領域にまたがるテーマを扱って悪いというものでもありません。むしろこっちの部分に、面白いテーマは多数残されているのではないかと思いますよ。

あと、どちらが上か下かという議論は意味がないということをあらかじめお断りしておきます。理系能力でも文系能力でも、上を見れば限りがありませんし、下を見れば限りなくゼロに近い人もいる。双方の能力を兼ね備えているといっても、その程度は別の問題なのですね。

閑話休題。で、以前のブログで分類した能力は以下のものでした。

理性=研究者=LOGIC =論理力=ソクラテス的なるもの
悟性=芸術家= ART =発想力=ディオニュソス的なるもの
感性=勝負師=MARKET=表現力=アポロン的なるもの

これを上の理系能力、文系能力に当てはめますと、おそらくは「理性」が「理系能力」で、「悟性」が「文系能力」に相当するのでしょう。

上の分類では、「理性」を「研究者」に対応させていますけど、これは、既存の理論を展開する研究者の意味であり、大多数の技術者にもあてはまりそうです。

そして、「悟性」に対応している「芸術家」は、新しいものを作り出す人々であり、研究者でも既存の理論を破壊する人々がこちらの分類に入ると思われます。

ヴィトゲンシュタインは「世界は成立している事柄の総体である」と彼の著「論理哲学論考」で述べていますが、この世界の中で活躍するのが理性を使う研究者や技術者ということになります。

この世界の外側を見通す能力は発想力とか創造力といわれるもので、いまだない理論や枠組みを作り出す。これがうまくいきますと、クーンの言う「パラダイムシフト」が起こるというわけです。

もちろんこれは、理系人間が世界のすべてと考えている領域の外側で起こる現象ですから、理系人間がこれを否定することはありそうなことです。ヴィトゲンシュタインも、語りえぬものについては、沈黙せねばならないと書いております。この主張はこの主張で妥当なものでしょう。

でも、ヴィトゲンシュタインも世界の外側があること自体については言及しております。神、倫理、美学などなど。そして、世界の限界を定めるのは「主体」であるとしているのですね。

こう見ますと、彼の言う「世界」は主体の把握した世界(意識的、理性的に把握した世界)であり、その外部について主体は語り得ないと主張しているものと解釈されます。しかし、主体が世界を拡大することまでは否定していないことに注目しなくてはいけません。

そして、ヴィトゲンシュタインの「世界」に含まれるものが「成立している事柄」なのですから、現在世界の外側にあるものは「成立していない事柄」であり、これには「成立しているか成立していないか、わからない事柄」を数多く含んでおります。創造的な研究とは、まさにこの部分を扱うものでなくてはいけません。

あと、今回の議論で抜け落ちておりますのが「感性」、「勝負師」の世界でして、こちらは現実の世界でビジネスを展開する上では必要ですが、科学技術に関わる議論の上ではあまり関係のない能力ということになるのでしょう。


MechaAG氏への反論、その4#482

>> 遠距離にある天体については、重心に質量が集中していると見
>> なして計算することに何の問題もありません。問題は、地表付
>> 近における地球の重力を計算する際に、地球の全質量が地球の
>> 中心に集中していると考えて計算することなのですね。

> なんで問題ないと思うの?そしてなんで地表付近だと問題あると
> 思うの?そこを考えるべきだといってるのですよ。~は問題ない、
> ~は問題あるというのは、単にあなたの「感覚的」なものでしょ
> ?それじゃ科学は駄目なのですよ。そこか科学の一番重要な点な
> わけ。人間の感覚・直感を排除して思考しなければならない。文
> 系はそれができないんだよね。自分の「感情」を大事にするのが
> 文系だからね(笑。

.
これ、ひょっとすると、文系=悟性、理系=理性という問題かな? これについては、別の記事によりわかりやすいものがありましたので、別途論じることにいたします。

優れた研究者は、すべて理屈で考えるのではなく、「なんか変だ」とか「気持ち悪い」といった直観を大事にするのですね。だから、地球の重力がそのすべての質量を地球の中心に集めたと同様に作用するという話を、地上のリンゴを引く力にもあてはめた時、これをおかしいと感じるのは、優秀な研究者の備えるべき特性だといいたいわけです。

その感じは、まずは理屈ではない。感覚的に変だと思うから、数値的に考えようとするわけですね。

実際問題として、地球の半径は6,300kmあり、地球に最も近い天体である月までの距離は380,000km、ざっと60倍も離れているのですね。だから、地表の月に近い部分と月から遠い部分の月までの距離の差は月までの距離の1/30にすぎない。

一方で、地表付近のリンゴの木に作用する地球の重力を考える際は、地球のリンゴに最も近いところまでの距離は数メートルであるのに対し、最も遠いところまでの距離はおよそ12,600km離れている。この差はリンゴと地球中心間の距離の2倍程もあるのですね。

だから、球体の重力が重心に作用するか否かという問題は、月と地球間の重力を論じる場合はさほど大きな問題ではなく、仮に地表に全質量が集中する形で作用したところで3%程度の誤差が生じるに過ぎない。

一方、リンゴと地球間の重力を論じる場合は、どこに作用するかで結論に大きな変化が出てしまう。MechaAG氏が書かれた図形を馬鹿正直に信じて、リンゴ直下の地表に地球の全質量が集中するとして万有引力を計算すると、その値は莫大なものとなるはずです。

そうした問題を、計算に先立って、ピッピッと直感的に判定してしまうのが文系脳であるといたしますと、これは新しいことに挑戦しようという研究者にとって、まさに必須の能力であるといえるでしょう。

>> 実は、球殻の場合、距離の二乗に反比例する力はすべてが球殻
>> の中心にあるとして計算してよい、というのが数学的な結論な
>> のですね(積分を使わずにこれを説明するのは結構難しいので
>> すが。)そして、球体は球殻の寄せ集めですから、地球の場合
>> もこれが成り立つ。

> だから潮汐力の箇所で、それでは駄目なんだと述べた。ようは
> 「どこで切り捨てる」「割り切る」かという問題なのですよ。
> あなたはそれがわかってないわけ。完璧な科学などないわけ。

.
潮汐力の場合も、重力場自体は、それぞれの天体の中心に全質量が集中したものとして扱えますよ。地表で受ける月の重力は、地球のそれぞれの場所で異なるのですが、これは、それぞれの場所と月の中心との距離が異なるため、月の重力場の大きさが異なっているためです。

なお、潮汐力に関しては、地球と月の共通重心を中心とする地球の公転運動による遠心力も月の重力と同じ影響を与えており、これが地表の下にあることから月に面する位置とその反対側で地球重力を最も強くキャンセルするというのが普通の見方ですけど、そうじゃないという論文も出ております。


MechaAG氏への反論、その3:#478

前回の反論(その2)に対する反論です。以下少しだけ追記しておきます。

まず、除草剤の問題です。

>> そして、モモンガ創世記の左側の記述は、除草剤に関して書か
>> れているのですね。つまりこれは、除草剤が撒かれたとの印象
>> を強く植え付ける。そしてもしもモモンガ創世記を書かれた方
>> が誤解したとするなら、最初の指摘で草刈り機による除草部分
>> も並べて表示したことが原因と推測するのはさほど不思議では
>> ないでしょう。

> だからモモンガ創世記の記述が不正確で無用な誤解を招くと思う
> なら、モモンガ創世記を批判すればいいじゃん。なのになぜ俺や
> はらですぎを批判するわけ?微妙に主張が違うわけですよ。たと
> えば俺はモモンガ創世記のその個所の記述に賛同しない。そもそ
> も俺は(そしておそらくはらですぎも)モモンガ創世記を根拠に批
> 判してるわけではない。

.
この除草剤の問題に関しては、パラベル氏が問題のないように撒いたといっているにもかかわらず、多くの人が大問題であるかのごとく論じたところに、私は違和感を感じたのですね。

で、その原因として最初の問題提起に付属した三枚の写真のうち、水田の脇の草が除去されている写真は草刈り機によって行ったものであるわけで、これを除草剤によるものと誤認した人たちが問題視したのではないか、との疑問をもったのですね。

これに関して、はらですぎ氏のツイートに質問を行い、「事務所と水田が近いことを示すために使われた」との見解をいただきましたが、だから害があるという直接的な証拠にもなっておらず、パラベル氏の問題ないとの見解を覆すだけの材料にはならないのですね。

この問題が深刻化した原因が三枚目の写真の誤認であるとの私の仮説は、モモンガ創世記の記事によって程度裏付けられると考えております。性善説を採用する限り、モモンガ創世記の作者が誤認したと考えるしかありませんから。

ちなみに、私はだれかを批判するために、このような事例を収集しているのではなく、ネットコミュニケーションにおける対立・炎上の事例として収集しているものです。まあ、これはちょっとひどいんじゃない、といった感想を持ったりは致しますが。

18号事務所天井照明のスイッチの問題に関しては、次のMechaAG氏の主張が、ここでの議論がすれちがうポイントを突いているように思います。

「こうすればスイッチの設置は可能だ」とあなたが言い張ったって、現実にスイッチが設置されてる様子はないわけで、それでもあなたがそう主張したいなら、あなたの方が「これがスイッチだ」という根拠を出すべきでしょ。

実際問題として、第三者が照明のスイッチが付いているかどうかを検証することなど困難だし、そんなものが付いていてもついていなくても、どうでも良い話だと思うのですね。

私に興味があるのは、前回も書きましたけど、以下の点です。

で、このはしごですけど、ライトの向きを調整していたのではないかな?

普通に考えればそうでしょう。いくらあのイケハヤ師であっても、天井のライトを点けたり消したりするのに、そのたびに梯子を上って天井に手を伸ばすなどと言うことは、とてもしそうなことには思えないのですね。

何事も、好意的に見るのとそうでなく見るのとでは、同じ光景でも異なる解釈がなされる見本のような話です。

つまり、普通に考えれば、いくらイケハヤ師だろうと、天井の照明にはスイッチぐらい付けるだろうし、まさか照明のON-OFFのために一々梯子など使わないと、私は思うのですね。工事業者だっていただろうし。

でも、イケハヤ師ならおかしなことをしてもおかしくはないと考える人から見れば、イケハヤ師は天井照明のスイッチを準備せず、梯子を使って照明をON-OFFしている、と考えている様子なのですね。

これはとっても興味深い現象で、そういうことがいったん生じますと、今度は、天井の照明スイッチを設置せず、梯子を使ってON-OFFしているイケハヤ師のことだから、などという形に思考が発展しかねない。

これもだれかを非難するというよりは、興味深い人間心理のコレクションということで記載した次第です。

次に、地球の重力の問題です。

遠距離にある天体については重心に質量が集中してるとみなして計算しても、結果はほとんど変わらないと認めてるわけだよね?それは物体が球だとしてその半径に対して、物体間の距離がものすごく大きければ、半径はほぼゼロとみなして近似できるということでしょ?

そういう理解じゃ不満なの?不満ならちゃんと計算すればいいんですよ。計算すればほぼ同じになることがわかるわけで。

遠距離にある天体については、重心に質量が集中していると見なして計算することに何の問題もありません。問題は、地表付近における地球の重力を計算する際に、地球の全質量が地球の中心に集中していると考えて計算することなのですね。

実は、球殻の場合、距離の二乗に反比例する力はすべてが球殻の中心にあるとして計算してよい、というのが数学的な結論なのですね(積分を使わずにこれを説明するのは結構難しいのですが。)そして、球体は球殻の寄せ集めですから、地球の場合もこれが成り立つ。

でもこうなるのは、非常な幸運というか偶然にそうなっているのであって、地表における地球の重力を計算する場合のように、下半分の四方八方に地球があるような場合に、質量を中心に集中させて計算をすることが許されるなどということは一概には言えないのですね。

ニュートンの万有引力のキモは、はるか彼方の月を引っ張っている力と地上でリンゴを下に引っ張っている力が同じ万有引力である、という点なのですね。これを説明する以上、この話はきちんと説明しなくちゃいけないと思うのですね。

本件に関して、早くもMechaAG氏の反論(#479)が出ております。しかし、次の図を見れば、MechaAG氏の誤解は明らかであるように思われます。

MechaAG氏のリンゴ

つまり、リンゴと地球との距離は、地球の中心から測らなくてはいけない。

リンゴに作用する地球の重力は、地球の全質量が作り出すものであり、球殻の集合体とみなせる場合は全質量が中心に集中しているとして扱ってよいのですね。

上の図のような、リンゴとその直下の地表付近の物体との間にも万有引力は働いているのですが、同様の万有引力は、地球の地下深くにある物体とリンゴとの間にも働いておりますし、東西南北にずれた位置にあります地球の様々な深さの部分からも引力が働く。

これを総合すると、なぜか、地球の全質量が地球の中心に集中した形になる。

6,300kmの地球の半径が地球とリンゴ間の距離に含まれていることを考えれば、リンゴの大きさなど、ほとんど無視できます。リンゴは点で近似することができるのですね。

自然界を数値的に扱う際に、電気回路などは集中定数系として、各デバイスに電気特性が集中しているものとして扱えます。離れた天体の質量も、その中心に質量が集中していると見なすことができます。

でも、熱伝導や、地下水の流動などの問題では、あらゆる場所での伝導を考慮しなければいけない。これが分布定数系の問題であり、地球も近くで扱うなら質量の分布を考察しなくてはいけないのですね。それがこの問題のキモです。

で、球殻に作用する万有引力は、中心にすべての質量が集中しているとして扱える。つまり、近くの地殻も、一周ぐるりと合わせて球殻にすれば、集中定数系として扱える。これは恐るべき幸運なのですが、物理の授業でこの幸運の共有するぐらいのことは、してもよかったのではないかと思いますよ。


MechaAG氏への反論、その2:#473

以前の私のエントリーに対する批判を寄せられています。これについてもいくつか言葉を補っておきます。

まず、除草剤問題ですが、イケハヤ界隈の現実氏のツイートからの問題提起に際して、3枚の写真が示され、最後のものは草刈り機で除草した箇所に隣接して水田が写っていたのですね。

これが5チャンネルやその他のブログなどで大きな議論をひき起こしたのですが、少々問題と思われたのがモモンガ創世記の以下の号外記事だったのですね。

除草剤問題

この雑草がない部分が草刈によるものであることは、パラベル氏のコメントに「草刈り前後」と書いてあることからわかるといえばわかるのですが、「草刈り」が草刈り機を用いたものか、除草剤を用いたものかは、誤解の余地がある。

そして、モモンガ創世記の左側の記述は、除草剤に関して書かれているのですね。つまりこれは、除草剤が撒かれたとの印象を強く植え付ける。そしてもしもモモンガ創世記を書かれた方が誤解したとするなら、最初の指摘で草刈り機による除草部分も並べて表示したことが原因と推測するのはさほど不思議ではないでしょう。

この直後に、パラベル氏は、除草剤を散布したのは水田に薬剤が流出する危険のない場所である旨の書き込みを行っており、これを否定する論拠がない以上、これを信じるのが普通だと思いますが、上の写真を除草剤の効果を示すものであると考えた人には、パラベル氏の言を信じられないのももっともなことなのですね。何しろ、水田の隣の草がなくなっているのですから。

そして現に問題は生じなかったし、5チャンネルにその後ポストされた現地の観察結果でも、用水路に関しては問題が起こるようなものではないことが述べられております。

結局のところ、この一件では大騒ぎをしてパラベル氏をdisったのだけど、彼が悪さをしたという現実は何一つ現れていない、というわけ。これは、えん罪とか名誉棄損とは言わないですけれど、あまり褒められた行為でもないように私には思われますよ。

これらに関しては、以前の私のエントリーに種々述べておりますので、不明点につきましては再読されるようにお願いします。

天井のライトに関しては、コンセントのための線が天井から床近くに下せるものなら、同様な二本の線でスイッチも床近くに下せるという点を指摘しておきます。

その他、天井板も貼らず、鉄骨も露出している工場然とした室内に配線が露出していることはさほど違和感がないのですね。作業場なら普通ですから。そういえば、作業場なら入り口付近にまとめてスイッチを配置するのも普通でしたね。

5チャンネルで議論が沸騰したのは、通常の住宅しか経験のない人たちが議論していたからではないかと思いますよ。

18号事務所の照明

重力に関しては、これは結構重要なポイントであるように思えます。つまり、重力が作用するのは重心に対してであるなどと簡単に言ってしまうのは、少々問題なのですね。これは、遠距離にある天体に対してならほとんどそうなるのですが、地上の物体に作用する地球の重力に対しては、説明が必要な部分です。

もちろん、現実に地球の重力は重心である地球の中心からの距離の二乗に反比例して地上の物体に作用しているのですが、これは地球が球体であるから。距離の二乗に反比例する万有引力の計算を重心に質量を集中させて行っても良いのは、球殻の場合に限られるのですね。

でもこれを説明するのはちょっと大変なので、細かな説明を省略するのは、高校の物理の授業としてアリなのですが、万有引力は重心に作用しますなどということを簡単に言ってしまうのは、やはり間違いとしか言いようがない。

まあ、これを間違って覚えたからといって、現実には大して困ったことにもならないとは思いますが、、、

カント哲学に基づく物理学の書き直しに関しましては、「おまえがやれ」といわれてすぐにどうこうなるものでもありません。そんなことが簡単にできるようなら、これは大変なことなのですね。でもこのブログ全体を通して、その挑戦は、少しずつ進めているつもりです。これにつきましては、今後も少しずつ進めてまいりますのでご期待ください。


MechaAG氏への反論、その1:#467

このエントリー(次節)に対するMechaAG氏の反論で、これに関しては一言書いておく必要があるでしょう。

以下は、MechaAG氏の書かれた部分の行頭に「>」を私の記述をMechaAG氏が引用している部分の行頭に「>>」を付けることとします。

>> 論文や書籍における引用も、画像の引用は文章の引用に比べて、
>> 正当な引用を行うための難易度が格段に増加してしまいます。

> ん~これは逆だと思うよ。表やグラフの引用は、出典をちゃんと
> 示せば認められやすい。必要もない箇所まで何でもかんでも引用
> しない限りね。

この部分は、私の知人が書籍を出版した際に不適切な引用があるということで、出版差し止めになってしまったとの経験に基づいております。その時問題となったのが、グラフの引用だったのですね。

実際どういういきさつで事態がこじれたかまでは詳しくありませんし、あまり詳細をお話しするわけにもいかないのですが、それ以来私は、どこからどういうクレームがつくかわかりませんので、グラフの引用には格段の注意を払うようにしております。

>> たとえばグラフなら、それぞれのマーカーにどういう記号を用い
>> るかなども著者の創造的な選択によるわけで、これを含めて引用
>> する必然性を主張することはなかなかに困難なことなのですね。

> どうもこの人は、工夫がある部分は引用が認められにくいと思って
> るっぽいが、むしろ逆。そういう部分は学術論文では認められやす
> い。だってそこにしかない情報なんだもん。

引用が問題となる前提に、それが著作物であるのか否か、それがいかなる著作物であるのかが問題となります。論文の文章部分は言語の著作物であり、グラフ部分は図形の著作物になるわけですね。

そしてそれが、単なる事実の表示であるならその部分は著作物とはならない。たとえば株価の推移などは、その数値自体は事実にすぎませんから、これを表示するだけでは、著作物にはならないのですね。

でも、Yahooや証券会社やその他さまざまな機関が提供している株価の推移グラフは、各社各様の工夫が凝らされている。その工夫がすなわち「創作的な表現」というものであって、この部分まで引用するのであれば、その創作的な表現部分を論評するなどの正当な目的がなければいけないのですね。

> それが文系の創作物(小説とか)と違う点。小説だったらクライ
> マックスシーンをネタバレしたらだめじゃん。でも学術論文と
> かは「その論文にしか書かれてない内容」というのは、それを
> 引用するしかないわけで、認められやすいのですよ。逆にどう
> でもいい部分まで引用するのは駄目だね。

クライマックスシーンのネタバレは、著作権とは関係のない部分です。著作権が保護するのは、あくまで表現部分であって、ネタバレ、つまりストーリー部分はアイデアに属する部分であり、著作権の保護の範囲を外れております。

> たとえばさ、大学とか研究機関が所有する資料には、その大学し
> か持ってない資料もあるわけですよ。となると門外不出、部外者
> には絶対見せない、と思う人がいる。まあそりゃどこの馬の骨と
> もわからない人間には気楽には見せてもらえないにしても、きち
> んと研究のために必要なので見せてくださいと申し込めば、見せ
> てくれる。だってそこにしかないんだもん。そしてその価値をわ
> かってるからこそ「見せてほしい」と申し込んでるわけで。

このあたりはその貴重な資料の物理的実体(有体物)に関わる権利であり、書かれた内容(無体物)に関わる権利である著作権とは関係のない話です。

なお、その後もMechaAG氏の批判は続いておりますが、本エントリーで議論しておりますのは、イケハヤ師による日経記事の引用が著作権法上の著作権制限規定で許容される引用にあたるのか否かという問題と、これに関わるネットでの実務上の処理がいかに行われているか、という点であって、一般常識(エチケット)の話は今回の議論の対象外と考えております。

その他、これは当然の話なのですが、このブログは特定の個人向けに書いているのもではなく、多くの読者に向けて書いており、特に本エントリーはネットに多くおられる著作権に詳しくない方に向けた解説を提供するのによい機会と考えてこの事件を扱っております。

だから、特定の方が理解していることも、他の読者に提供したほうが良いと思われることは記述しています。また、法律的な権利に関する話は、細かな点が問題となる場合が多く、細部に触れずに話を進めることも困難です。興味のない部分は、読み飛ばしていただくよう、お願いいたします。

著作権侵害問題

経緯

イケハヤ大学が日経の著作権侵害をしているのか:小川氏のノート。10/17にポストされた現状報告です。
イケハヤ師の報告:このリンクに含まれております、イケハヤ師の日経新聞画面引用の状況を、下図に引用します。

日経画面の引用

イケハヤ師も引用しておりますように、引用は報道、研究、批評などの目的上必要な範囲内で、必要最小限度の利用であることが要請されます。

これに対して上の絵が、果たして引用するに際しての「必要最小限度」であるかどうかが問題となります。

すなわち、右上の日経新聞のロゴを引用する必要があるのか、メニューや画面下部にありますアイコンを示す必要があるのか、などが議論されることになるでしょう。これらの画面を構成する要素の配置も、ウェブ画面の著作権に含まれることにも注意しなくてはいけません。

論文や書籍における引用も、画像の引用は文章の引用に比べて、正当な引用を行うための難易度が格段に増加してしまいます。グラフや写真や図表など、コピーペーストで引用できれば楽なのですが、これらの作成に、著者はかなりの知恵を注ぎ労力をかけているのですね。

たとえばグラフなら、それぞれのマーカーにどういう記号を用いるかなども著者の創造的な選択によるわけで、これを含めて引用する必然性を主張することはなかなかに困難なことなのですね。

ちなみに、このエントリーも、イケハヤ師が引用した日経サイトの画像をそのまま複製しているのですが、これは、イケハヤ師の「引用」が不適切であることを示すために行っている引用であり、そのためには、それぞれの不適切な個所が表示される必要があり、結果的にイケハヤ師の引用した画像全体を含む形での引用が必要になっております。

イケハヤ師のノートへの追記によりますと、

(10月20日AM6:30追記)
すべての動画について、異議申し立てが通っていました。

日経からのアクションは特にないので、このまま復活されることを祈る……。

とのことです。

日経側の申し立てがどの程度本気のものであったのかはよくわかりません。画像の使用を自動検出して、機械的にクレームを申し立てているような感じもします。もしそうだとすると、ややこしい相手には、文句をつけるだけでとどめておく、といった対応もなされるのかもしれません。

いずれにいたしましても、この問題に関しましては、この先もう少し経緯を見守りたいと思います。

上でもご紹介しましたが、イケハヤ師のツイートによれば、11/1現在で以下の状況です。結局、今回の問題でイケハヤ師はおとがめなし、という結果となりそうです。

ふいー、やっとYouTubeのペナルティが解除され、完全復活!
不当な著作権侵害クレームという、まったくもって理不尽なトラブルでしたが、まぁいいネタになりました。
引き続き更新がんばります!

メロンパン氏の解説

メロンパン氏による今回の問題に対する解説というより感想か。

全体に間違いが多く、間違いが多すぎるがゆえに個々に指摘することも困難です。ここでは、この解説を信じてはいけません、と述べるにとどめておきます。

10/21追記:時間の余裕ができたところで、少しずつ間違いの指摘をしておきます。まずは、まとめ的部分である「なんとなく素人の僕が思う事」から見てみましょう。

著作権法は昭和45年とあるので、約50年前にできたもののようです。

(著作物にプログラムが加わったのが34年前)

比較的新しい法である感じがしますが、これができた時、著作物には新聞記事は想定されていなかったのかもしれません。

(だから著作物に書かれていない)

現行の著作権法の制定は昭和45年であるとしても、それ以前に有効であった旧著作権法は明治33年の制定です。旧法のすごい点は、著作権の侵害を「偽作」と呼んでいること。おどろおどろしいですね。

ちなみに、旧法11条の〔著作権の目的とならない著作物〕には、2項に「新聞紙又は雑誌に掲載したる雑報及時事を報道する記事」を規定しており、単なる事実を報道する新聞記事は著作物には該当しないとしております。

今日の著作権法では、新聞記事それ自体は第10条の言語の著作物であり、第2条1項の著作物の定義「著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」により、それが創作的な表現であるなら著作物として認められる方向となっています。

ここで、創作的な表現とは、他とは異なる、独自性のある表現であることが要件であり、芸術性の高さなどは要求されないというのが、現在の考え方です。

新聞記事が著作物であることは、著作権の制限規定である39条などに述べられていることからも、著作権法が想定していると考えられます。ただしここでは「論説」について述べており、単なる事実の伝達は著作物とはされておりません。

そもそもこの法は著作権者の保護が目的なので、引用の正当な範囲もその中にあります。

著作権者に不利益を与えたら

「正しい引用」が成立しないんです。

著作権法は、著作者の権利の保護と著作物の利用による文化の発展の調和を図るもので、著作権者の権利を一方的に保護するものではないのですね。

だから、著作権の制限規定が設けられています。これは、例えば米国では「フェア・ユース」の規定といって、著作権者の人格権や経済的利益を大きく損ねることなく、社会的に妥当と考えられる範囲での著作物の利用に対して、著作権は及ばない、としているのですね。

その一つに、引用があって、引用まで禁止してしまったら議論が成り立ちませんので、一定の条件のもとに、引用に関しては著作権を制限する、つまり、引用は自由に行えるとしております。

「著作者がダメっつったらダメなんだよ。」

著作権の制限規定がある以上、そんなことはありません。また、そもそも「引用した」といっているものが著作物であるのかそうでないのかの判断も必要です。事実の伝達なら、著作物にはならないのですね。

次に最初の部分「『引用』に当てはまるのか?」ですが、この標題は「記事の引用」の方が良いような気がいたします。

第一に、日経新聞のウェブサイトにあります「記事を「引用」して利用することは可能ですか」は、あくまで「記事」の引用であって、言語の著作物の引用に関して述べられているのですね。

画像としてのウェブページは、題字(書)は、仮にそれが大家の作品でなくとも独自性があるならば美術の著作物になるだろうし、版面権として主張されるレイアウトなどは図形の著作物となるのではないかと思いますが、上の、日経新聞の書き方は、あくまで「記事の引用」すなわち文章部分をテキストとして引用する場合について語っているのでしょう。

で、スクショが引用にあたるかあたらないかといえば、これはあたる場合もある。そもそもメロンパン氏にしても、イケハヤ師の画像を引用しているのですね(私もしておりますが。)これが大丈夫かどうか、自ら問い直しておく必要があります。

問題は、画像は情報量が極めて多く、必要最小限にとどめるべしという、引用の要件を簡単に外れてしまいます。メロンパン氏のイケハヤ師のツイート引用にしてみたところで、イケハヤ師の顔写真まで表示する必要があるのかと問われたら何と答えるつもりでしょうか。

まあ、この問題に関しては、法の範囲にとどめるべきか、法を逸脱しても実務上許される(著作権者がクレームを付けないと予想される)と考えるべきかという問題もあり、あくまで法をごり押しするのは青二才の考え方であり、大人は実務慣行で考えるべしとの見方もあるのですね。

そして実際の世の中は実務慣行で回っている。

実は、著作権法の専門家もそんなことは百も承知なのですが、出版物などにはこれが書けない。授業では話してくれますので、結局は、著作権がらみで実務経験を積むか、気の利いた先生による著作権法逐条講義の授業をどこかで受けておかなくては、著作権の実務についてはわからないということにもなりかねないのですね。

まあ、ここは、イケハヤ師は、イケハヤ師のツイート全体の画像としての引用にクレームを付けないであろう、との判断は、実務的に十分に受け入れられると思いますよ。それに、彼がクレームを付けたらこれを削除することで、さしあたり大きな問題に発展することはないものと思われます。

「報道・評論のプロでもないヤツが営利目的で新聞を無断でコピーして配ってることが目につく、将来技術が進んでさらに新聞が身近になる、新聞の価値が落ちるから著作権に照らして営利目的の無断複製を許すわけにはいかない」

本当に感動しました。

これ、イケハヤ氏に状況がドンピシャです。

その昔、企業などから注文を取って、その企業に関連する新聞・雑誌記事をスクラップしてくれるサービスが出たことがあったのですね。この毎日新聞の主張は、自分たちが新しい技術を用いて似たビジネスを始めたいから、似たビジネスはしてくれるな、と言っているのですね。

企業に関連する報道などをスクラップする行為は、企業内部では、普通に行われております。上で毎日新聞が問題としているサービスは、これを第三者がするというもので、そこに新聞社が割り込みたいということでしょう。

でもそうであるなら、新聞社が割り込んで、競争により他を排除するのが正しい姿なのですね。もちろん、これが著作権法に規定された正当な権利なら、大いに主張すればよいのですが。

ここで問題となるのが、事実の伝達は著作物とは言えない、という点。

上のスクラップ業者は、ゼロックスコピーを提供していましたから、版面権などのさまざまな権利に触れる恐れが多分にありました。でも、記事をテキストファイルにして配るなら、それが新聞社による評論などを含まない事実の伝達にすぎないのであれば、自由に行うことができるのですね。

なお、ヤフーなどが配信している新聞記事は、テキスト形式での配布ですが、ヤフーは新聞各社から記事を購入していると。このリンクは、これが非常に安いということに驚いているのですが、さしあたりネットのサイドもテキスト形式の新聞記事に著作物性を認めております。

事実の伝達にしても、用語の選択や、話題の取捨選択において創作性が認められるなら、これは著作物といえる。だから、そうではないことを十分に確認したうえでテキストファイルを配信するのは、これはこれでありだと思いますよ。

そしてイケハヤ師はこれに独自の評論を付け加えているわけですから、仮にそれが、大したものでもないといわれたところで、オリジナリティさえあれば、これは立派な著作物となり得ます。

なお、先のリンクによりますと、新聞各社は記者クラブなどで取材するため、各社似たような新聞記事になるとのこと。

これは、どれか一社の新聞記事を読めば充分であるということにもなるのですが、各社の新聞記事から共通項を取り出して表現を改めれば、これが独自の著作物になる。AIでそういうことを始めますと、新聞社の著作権は失われてしまう可能性もあります。

メディア各社が独自の権利を維持しようと思うなら、事実の伝達にとどまらない、論評部分に力を入れる必要があるでしょう。

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